12-6 Awakening(帝国の遺産)――都内某所
邪眼――。
結膜は漆黒に染まり、瞳は深紅の闇を湛える。
スティグラー博士は詩的な表現で異能の様態を表した。
その力は見るだけで人や怪異を傷つける。
だからこそ注意して使用してきたし、実際に怪異を邪眼だけで討滅してきたことは無かった。
邪眼で命を奪えるのか。
私自身にも分からない。
それでも迷いはない。
ヒノエを傷つける敵は、私が許さない。
呪い、――呪う。
爆ぜろと想像を乗せて。
このスラブ人の歪んだ表情、堅強な身体、外骨格に――砕け散れ、と。
レフチェンコを守っていた空間の皺みは、見る見るうちに波打つ。多層の階調が不気味に蠢き始めた。
……崩せる。
確信がより強く呪わせる。
神聖化された銃弾すら防ぐ強固な霊的防御空間は、邪眼の前に崩れ落ちようとしていた。
「『や、やめろッ――!』」
怯え、竦み、醜い手指は既に勢い無く。
逃げ腰のレフチェンコは視線を外しつつ、チラリと後方を確認している。この状況から脱出しようとしているのは合理的な選択であろう。
だが――、許さない。
「『逃げるな――ッ! この卑怯者ッ!』」
呪い殺す。
念を込めれば込めるほど空間の皺みが強まる。
衝突時の運動エネルギーを霊的エネルギーに変換する肉厚の変換膜。邪眼が物理、霊、どちらに作用しているかは分からないが、この際どうでも良い。
数秒。
空間の皺みはシャボン玉が弾けるようにバリンと割れた。見ると、外骨格に浮かぶ金色のルーン文字が輝きを失い、背景の黒に呑み込まれていくのがわかった。
階調が消滅し、そこにあるのは歪みない空気。
遮る物は何も無い。
『ば、馬鹿な――!』
こんなものがあるから――。
外骨格に爆ぜろと念じると、あれだけ強固な防御力を見せた『帝国の遺産』は無様に罅が走った。
雷竜馳せるが如く。
バリバリと音を立てて割れていく。枯骨朽ちてボロボロと、砂のように舞い崩れ、瞬く間もなく地に墜ちる。
壁は消え、残るはただの人間。
視線が――奴を捉える。
「『ぐ、がッ……。た、助け……』」
レフチェンコは膝を床につき、胸を押さえて苦しみ始めた。
視線は交差せず、私が一方的に睨んでいるだけである。
嗚咽、苦悶、苦虫を噛み潰したような表情。
その瞳は恐懼と哀願に彩られている。
助けてくれ、と。
見逃してくれ、と。
巫山戯るなッ!
慈悲の念など微塵も湧かぬ。
それどころか、波打つような怒りが心を揺さぶる。
居丈高に高慢に、全てを睥睨して人の命を奪う人間が、弱った途端に命乞い。
――あぁ、ウリエルより酷い。
かの大天使はまだ己の職責と信念に生きていた。
だがコイツは違う。
命を弄ぶ愚昧な男だ。
そんな男が彼女を殺そうとした。
砕けろ。
胸を押さえる両手に念を送ると、――めきめきと木が折れるような音を立てて、奴の五指は夫々にあらぬ方へ曲がっていく。
聞くに堪えない鈍い音。
合奏はレフチェンコの絶叫。
暗く朽ちた部屋いっぱいに叫喚が響き渡る。
涙を流し顔を赤らめ、潰れんばかりに目を閉じ痛みに叫ぶ。
それは当人達がやってきたであろう拷問のそれだ。
因果応報。かける言葉はない。
前のめりになっても、支える土台は力を失い――、レフチェンコの躯体は虚しく前のめりに倒れ込んだ。
黒色にくすんだ汚らしいタイル床の上で、芋虫のように藻掻く様に、これまでの威厳は微塵も感じられない。
「『……や、やはり! 貴様は兵器だ!』」
叫喚の谷間、レフチェンコが怒鳴るように声を荒げた。
「『き、貴様も分かっているだろう! この力が証拠だ! 貴様自身が、予期せぬ『帝国の遺産』だ! お前を巡って、米国も日本も、我が国も奪い合う! ハ、ハハハ――ッ! は、は……』」
嗤い。
而して静まる。
死んだかどうか分からない。
だが――、殺さねば。
殺意の残火が胸を燻る。
あぁ、殺さねば。
波は止まらず、打ち寄せて。
その首、墜ちねば心やすからず。
――なんだろう、この感情は?
上手く頭が働かない。
殺意を客観的に見ている自分がいる。
波に呑まれながら、波を見ている自分がいる。
でも、駄目だ。
この世の全てが憎悪と殺意に埋め尽くされる。
髭切よ。
彼の首を刎ねるべし。
「『やめて卜部さんッ!!』」
凛――と。
何処までも透き通る鈴の音に、甲高いヒノエの叫び声。
重奏。
涼やかな鈴の音なのに間近で響く大鐘の音のようだ。
意識は揺さぶられ、俄に瞬断した。
途端にするりと力が抜ける。
張り詰めた糸が弾け、足に力が入らない。
崩れて膝を突き、流れるがまま床に倒れ込む。
冷たい。
倒れた痛みより、床の冷たさが皮膚を刺す。
土埃と焦げた木々の臭いが立ち上り私を包む。
酷く生理的な嫌悪感を惹起させるが、殺意を少しでも抑えてくれるなら、……それでもいい。
自然と眠りに落ちるように瞼が閉じられ、意識が朦朧とし始めた。
きっと――ヒノエの呪術か何かだろう。
「『貴男に罪は似合わないわ』」
私の名を叫ぶ隊長やデービッドの声が、雑音のように僅かに聞こえる中、ヒノエの声だけが明瞭に耳に刺さった。
優しく、見守るような声色で、私を救ってくれる。
――しかし、そうだろうか?
私の罪は、私が殺した敵兵の眼と、巡り会った太歳の眼だけが……。
薄れ行く意識の中、過去の罪罰を並べ立てながら微睡みの中に一人墜ちていった。




