8-1 natural(建御名方)――代々木
「どうして……、どうして貴女がここにいるんですか――?」
「どこにいようと、私の勝手です」
切れ長の妖艶な瞳が――私を貫く。
だが、怯む訳にはいかない。
正論は私の方だ。
――ここは私の家だ。
昭和22年1月末――。
冬はまだまだ本番の様相で、肌に刺さる寒気に震えながら帰宅した時のことである。
通勤僅か5分。
基地の外とはいえ、目と鼻の先の新築物件である。
占領軍家族住宅――。
終戦処理費の5分の1を占めると言われる、敗戦国日本に課せられた重苦。
夥しい数のホテルや屋敷が連合軍に接収され、陸軍省などは東京裁判を行いつつも兵士のアパートとしての機能も付与されていると聞く。
官制物資でも間に合わず、闇物資まで投入しながら新築と改築を行っているらしい。
中でも新築など、本来は高位の将官クラスに最優先で割り当てられる代物であろうが――私が住んでいるのがここである。
ピカピカに輝く真っ白な外装。
ペンキ臭が鼻につくが、それ以外は何も言うことなしの洋風建築。
ゆったりと寛げる大きなソファー。
手足を伸ばしてもまだ足りない赤いカーペット。
壁を囲うシックな調度品の数々は些か大仰な気もしなくもないが、借家の閑散とした部屋は遠い日の幻影に消え去るほど、物と存在に溢れている。
そして、キッチン――!
初見では思わず身震いした。
竈でもなくガス竈でもなくただの流し場でもない。金属とタイルで構成された異次元空間には、調理をしない私でも心が躍ったものだ。
全てが真新しく目に焼き付き新鮮さに心踊り、――そして馴れた。
ただ、今でも思う。
家の中の靴だけは駄目だ。
それでも家に帰れば、ラヂオからは陽気な歌謡曲が耳を喜ばせる。
怪異討伐で疲れた果てた身体や、机仕事で肩が重く凝った時などは、耳を軽やかに流れるラヂオが一服の清涼剤であった。大変な不便から遠のいた、――あまりに充実した生活が骨の髄まで染みついてしまった。
日は疾うに暮れた。
暗く冷たい風が吹きすさぶ。
玄関を開け、買い物の紙袋を台所に置いてリビングに戻ってきた――、今。
「鍵は掛けたはずですが――」
「あら、開いてたわよ。さっき鍵を閉め忘れたのでしょう?」
ヒノエが深々と寛ぎながら目を伏せる。木仏の様に澄ました表情は、真意を帳の向こうに隠している。
彼女の佇まいはこの生活空間への違和感を通り越して、もはや不穏である。
紅潮と悪寒が頬と頭をぞろぞろと駆け巡る――。
「でも、声を掛けずに入り込んでくるのは失礼じゃないですか?」
精一杯の詰問。それでも飄々とした佇まいは崩さない。
「良い所に住んでるわね――」
部屋を見回しながら皮肉を言う。
いや、率直な感想か。
「そんなこと言わないでください。僕だって気にしてるんです」
「でも、それも最初だけ――でしょ?」
冷たい視線が、冷たい声が心に突き刺さる。
抉り、刺し、貫き、傷む――。
粗雑なバラック住まい。
身を淫に窶す女、空腹に人を殺す男。
目散る、原爆糖の酒に身体を壊す。
馬糞集めで燃料を稼ぎ。
シケモク集めで日銭を稼ぐ。
敗戦国日本の現実。
「……否定はしません。でもそれを言うために態々?」
抵抗を試みる。
――が、そんなものに意味は無い。
忍び込んで寛いでいるのは、何かを言うために待っていたのだ。
私の抵抗はただの督促。
「いいえ。でも、確認したいことはあるわ」
ヒノエは一呼吸置くと、私をまんじりと見つめた。
――その目は、何を言う。
「貴方――、連合軍が戦時中に怪異と契約してたってご存じ?」
「え――」
言葉が鉄塊となってぶつかってきた。
「知らないわよね、当然だけど。でも、何処かで聞いたことはない?」
何処か――。
想起は意識を過去に引っ張る。
横浜。漆黒の海。
――『誰かの依頼か?』
――『それは言えないねぇ。……というより、薄々感づいてるんだろう? え?』
――『では何故、今米軍の車輌や船を沈める?』
――『腹いせさ! 報酬が支払われないんじゃな』
――『報酬とは?』
――『第7の玉座』
「フォカロル……、奴の言葉……」
「ふぅん――、思い当たる節はあるようね」
ヒノエは澄ました顔で、暗闇うずくまる窓の外を眺めた。
窓の外は同じような占領軍家族住宅の明かりが煌々と照る。
廃墟やバラックとは隔世の光景が広がる。
「そう……、戦時中米軍は怪異と契約し、前線の兵士達と私達を攻撃した」
鉄塊が模様を帯びる。
それはグロテスクな――罪模様。
「日本人を?」
「奴らは米国政府に協力して、禁じられた『呪殺の祈り』を我々『ラセツ』に向けたのよ。それだけじゃないわ。――怪異と契約し、使役し、前線の同胞を殺したのよ」
瞳が震え、口調が俄に熱を帯びる。
「姿形を表す奴もいるけれど、怪異は見えない。怪異は好き勝手に我々を切り刻める。これがどれだけ恐ろしいことか……」
かつて私が身に染みた恐怖。
視認も出来ず、されど牙を剥く。
砲火の中、飢えで死んでいった同胞達の一部は怪異の魔の手に?
――だが、突然すぎる。
「待ってくれ。それは大戦中の米軍の話か? 今の我々に何の関係が――」
「『神聖同盟』を本当に信じられる――?」
鉄塊は脳髄を打ち砕く。
フォカロルの言。
それは米国と怪異の契約。
だがロバート隊長を筆頭に、デービッドやクラウディアといった仲間が――。
「貴方を大事思うなら、貴方を闘わせたりはしない。そうでしょ?」
冷徹な合理性。
だが、私は過去に立ち向かうため、怪異に立ち向かってきたのだ。
この邪眼を手に入れて――。
目を塞ぎ、両手で鷲づかみにする。
邪眼、イービルアイ、オーバールック……。
怪異を、人を殺せてしまう、呪われた異能。
私は何故この力を持った?
「その力――、ゆめゆめ間違わぬように……」
ヒノエの声が、突然か細く消えいる。
ハッと目を開くが、――そこにヒノエの姿はない。
ソファーの微かな窪み、鼻腔を僅かに擽る女の香を残し、彼女は姿を消していた。




