7-5 Doppelgänger(影法師)――豊島区
『……思いの外、広いですね』
『昔の住宅じゃないわね、これ』
和風建築に特有の〝絶壁〟の如き階段ではない。
角度も穏やかな洋風階段。L字に曲がりつつも、幅広な空間により、機関銃の取り回しにもたっぷりと余裕があった。建築様式に疎くとも、この家が古くないのは分かる。
或いは国外の家を参考にしたのだろうか……?
『気をつけて。……いる、わ』
……いる。
階段を上がった先は、意外にも全ての壁が取り払われた、寺社の大広間のような広大な空間であった。
床の板は茶色く変色し、窓は少なく仄暗い――。三面の壁にはくすんだ白色の薬品棚がずらりと並び、試験管や瓶がガラス棚を整然と気味悪く飾っている。
ど真ん中。
茶色と黒の大教卓が鎮座し、……いた。
『あいつは何を?』
男はこちらに背を向け、教卓で何か作業をしているようだった。カチャカチャと金属とガラスの打つかる音が耳障りだ。音、そして手捌きの具合から――何かを調合しているのか?
灰色のコートと焦げ茶色のスーツはそのままに、その背は微かに痙攣していた。
『……かね……金』
男が――いや、怪異の独り言。
ぼそぼそと暗く低く、陰の気を孕む。
『……殺してもきっとばれない』
――なに?
物騒な言葉が脳裏をかすめ、私達は視線を交わした。
クラウディアを中心に、V型に隊形を展開する。機関銃が、二十六年式拳銃が、無骨な拳が男を捉える。
『ウラベ、私が行く』
静かにな呟きに大きく頷いて返した。
クラウディアが慎重に一歩を踏み出した途端、男がピタリと作業を止めた。何かの準備が終わったようだ。
『貴様らも……毒を飲めッ……!』
絶叫と共にバネ仕掛けのように振り向く――!
一瞬のことだがすぐに理解出来た。
右手の水筒。
蓋は外され、明らかに何かをぶちまけようとしているのが、瞬時に分かった。男の表情が引き攣った笑顔に歪み、右腕は大きく振りかぶり、水筒を、いや中の液体を我々に――!
『甘いわッ――!』
突然、茶色のコートが私の視界に飛び込んで来た。重量感のある衣類が塊のように飛来し、男の手元に覆い被さったのだ。
――女が着ていたコート。
男が満を持して振るおうとしていた水筒はコートと共に地に墜ちる。咄嗟のこと意外なこと、男の顔は恐懼と恐怖に彩られ、真っ黒な眼窩が大きく闇を開いた。
刹那、女の二十六年式拳銃が火を噴く!
至近距離から1発、男の額に光環が輝いた。
……今だッ!
引き金を目一杯に引き、機関銃を男の肩や頭を目がけて乱射した。
弾ける火薬音、塞がれた炸裂音。
光環と着弾の衝撃に、男の身体は爆竹のように揺れ刻む。
「『いくぜッ! ……おおおおおおおぉ――ッ!』」
声かけと発砲停止は、あ・うんの呼吸。
クラウディアの拳は光を纏い、この灰色の男の胸を目がけて、渾身の一撃を斜め上に叩き込んだ!
下から抉るように、アッパー気味の一撃。
その打撃力は想像を絶する。
男の身体は、車に弾き飛ばされたように、教卓の後ろに勢いよく吹き飛ばした。人間サイズの物体が軽々と飛んでいく様は非現実的に過ぎる。
その光景に唖然と口を開いてしまった。
硝子が砕け、空を舞う。
派手な破砕音を部屋いっぱいに轟かす。
甲高い反響とくぐもった残響の中、男の胸には大きな穴が空き――、中から黒黒とした瘴気が滝のように溢れ出していた。
『あ……、あぁ……』
男の呻き声が霞む。薬品棚に座るようにもたれ掛かった身体は、見るからに苦しそうに痙攣している。だが、不意に口元が醜く歪んだ。
『どうせ……、俺は、訴追されない……、占領軍も、同じ穴の、狢……よ……』
その言葉と共に、黒い瘴気が男の身体の至る所から散るように噴き出した。
あっという間。
男の身体は真っ黒な瘴気に包まれ、瞬時にして霧散し消え果てる。風に消え跡形も残らない。
男のいた後に目をやると、無残に散ったガラス片と薬品の液体が残されるばかりであった。
――これは一体なんだ。
男は何をしようとしていた?
何故各地に現れた?
訴追されない?
占領軍も同じ穴の狢――。
言葉の真意が全く以て分からぬまま、私は硝煙が僅かに溢れる銃口を下げた。
『安心するのはまだ早いわ――』
女が拳銃に弾丸を装填しながら冷たく呟く。
ふと女を見て驚いた。
コートの下は可愛らしい白のブラウス――だけではない。
黒色のチョッキに拳銃用ホルスター。細いベルトは細身で華奢な身体をしっかりと締め、旧軍で使っていた九十九式手榴弾をいくつもぶら下げている――!
女にしては異様、面妖。さすがにその言葉をぐっと飲み込み、微動だにしない女の冷静な態度を見て、何とか二の句を繋げることが出来た。
『どういうことですか?』
『ここは怪異のど真ん中――、でしょ?』
まるで女の一言が合図のようであった。
突然ぐらぐらと足元が、――いや、家全体が大きく揺れ始めた。
めきめきと音を立てながら軋み、声にならぬ声を上げながら、『迷い家』は震えだした。
『これは……、まずいわね』
『あぁ、逃げるの一手だな』
女とクラウディアの会話は無駄なく重なる。結論は火を見るよりも明らかであった。
『二人とも、早く逃げましょう……!』
振り向くと、彼女たちは既に階段の所まで走っていた。私が声を掛けるまでもなく――、二人はすでに駆け出していたのだ。
『ウラベッ! 遅れるなッ!』
――疾風迅雷、脱兎の如く。
私だけが少し遅れて階段を駆け下り始めた。
バタバタと足音を立てて駆け下りる。震度にして3程度であろうが、走るのは中々に辛いものがある。左右に振られて壁に何度もぶつかる。やっとの思いで、転げ落ちるように1階まで降りることが出来た。
ハァ――と安堵の息をつく間もなく、廊下を見遣ると、彼女たちは既に玄関付近まで達していた。
『玄関が開かないわ!』
『どいてくれ! ぶち破るッ!』
ぴったりの呼吸。
避け、殴り――、扉を爆発的に破る。光環は仄暗い廊下をフラッシュし、間もなくして傾いた西日が輝く外の明かりが廊下に入り込む。
もう、この二人だけで良いんじゃ――。
『ウラベ!行くぞ!』
『……わ、分かりましたよッ!』
先に外に出た彼女達は玄関脇で私を待ってくれた。呼吸激しく、よろめきながらも全力で駆け抜ける。
ゴツンッ――!
玄関を飛び出したと同時に鈍い金属の音が響き、私は急いで振り返った。
女の手には九九式手榴弾。彼女は『迷い家』の壁を勢いよく叩き、信管を起動させたのだ。
『消えるくらいなら取っときなさいな――!』
女の勇ましい掛け声と共に手榴弾がふわりと放物線を描き、廊下中央辺りに落下した。
『急いで!』
すぐに脇目も振らず、敷地入口に向かって駆けだす女。クラウディアも、私も続く。
数秒して――、鬱蒼とした緑のトンネルを抜ける頃。
ドーンと大きな炸裂音が辺り一帯に響き渡った。
俄に振り返ると『迷い家』が、白煙と黒い瘴気を窓から吐き出しながら、左右に大きく揺れていた。
――まるで生き物のように、あの男のように。
改めて思う。
これも怪異なのだ。
早く敷地内から逃げよう。本能的に敷地の外まで走りきり、勢いそのままの振り向きざまに――機関銃を構える。
見ると女も拳銃を構えているが、撃鉄は起こしていない。
『もう大丈夫なようね――』
彼女の銃口が上げられ、静かに息をついた。
目の前の『迷い家』はその身を震わせながら、黒い瘴気を全身に纏う。
闇に包まれ、闇の呑まれ――。
目の前の今までいた空間が皺み、歪み、揺らめく。
……消える。
直感がそのまま現実となり、『迷い家』は徐々に透明になって、やがては消え果てた。
残されたのは草がぼうぼうに生えた荒れ地。
ありふれた光景、日常の一葉。
あれだけの喧噪がまるで何もなかったかのようである。
静かにひっそりと、冬の夕焼けが赤く活き活きと辺り照らしている。
『あの怪異は、一体何だったんだ……』
『へっ――、男がヌシで、家が従者。男が消えたから、家も消えた、でいいじゃねぇか』
状況的には正しそうだ。
しかし、女の表情は固く、口角を下げたままだ。
『多分だけど……、男の怪異は影法師ね。本体は、別にいるはずよ』
『ほ、本体は別にいる?』
『えぇ。普通の怪異じゃあり得ないくらい「人間臭かった」もの。靴を脱いで上がる怪異なんて聞いたことないわ。……生きた人間とうり二つの怪異。だから生きた人間と同じ行動を取ってたんじゃない?』
――毒薬。偽装。毒を飲ませる。
――銀行。移動する家。
見聞が、嫌な予感が、脳裏を圧倒的な速度で駆け巡る。
『それじゃ元の人間の方はこれから……』
『……そうね。「迷い家」の方は影法師に引き寄せられて一体化しただけの、まぁ一過性の怪異でしょう。でも人間の方はもしかしたらこれから――ね。だから、私の方でも探ってみるわ』
女は静かにサングラスを外した。
お洒落な洋装に見合った、整った顔立ち。
ぱっちりとした瞳。
――その顔には見え覚えがあった。
午前中に見た新聞。
『あ、……貴方は確か女優の』
女が呆れた調子で肩を竦ませた。
『今頃気づいたの――? 私はミエコ。神宮司ミエコよ。同僚のヒノエが世話になったわね、卜部さん――』
苦笑い、或いは微笑みか。
それとも銀幕女優の演技か本音か当惑していると、グサリと釘を刺された。
『次はもっとしっかりしてちょうだいね』
『ハハッ! 言われてやんの』
暮れ泥む東京の夕日に照らされて、気の抜けた鴉の声が辺りに響く。
……情けない。
私は頭を垂れるしかなかった。




