エピローグ2 Till we meet again(また会う日まで)――神田
「――おはよう、卜部さん」
ロバート達が羽田で別れを済ませている頃。そう分かっていても、彼女はここから離れることを選ばなかった。
ラセツが隠れ拠点に使っている神田のあるビルヂング。日の光が燦々と降り注ぐ病室で、白い病衣を纏い真白きベッドに横になっているウラベの傍らに、ヒノエは静かに腰を掛けた。千早を脱いだ黒き巫女は、優しくウラベの手を触った。
チラリと視線を部屋に流したヒノエは、小さく溜息をついた。
かつて大天使を滅ぼした妖刀は主人の帰りを待ちながら寂しげに棚に立て掛けられ、抉ったはずの身体は浅黒く変色しながらも――傷一つ見受けられない。
「貴方は――、死んでなんかない。口寄せも千里眼も、貴方が死んだことを表してないわ」
霊安室ではない。
彼は――、死んでいない。
そう主張して病室にして貰った事を後悔はしていない。彼の身体は遺体じゃないのだから、と腕をさすりながらヒノエは自分に言い聞かせた。冷たくなっても、自分を包んでくれた優しい手には変わりないのだ。
「今頃、みんな飛行機に乗ってるわ。貴方は送り迎えに出かけられないけど、皆、きっと貴方を思ってるわ」
返事はない。
もうすっかり慣れたモノローグ。
それでも――、今日は言わなきゃいけない。
「……あのね。私、……貴方には言ってなかったことがあるの」
膝上の両手をぎゅっと握り、唇を強張らせる。
「私ね…………、全部、知ってたの」
物言わぬ彼と分かっていても、心の奥底から伝えなきゃいけない。そう自戒しながらヒノエは言葉を紡いだ。
「心が読めるのって、全然嬉しくない。少し念じるだけで、相手の考えていることが透けて見えちゃうから。……初めて会った時から、私、貴方の心を読んでいたの。だから……貴方が、私を……その……好いてたこと、も……」
頭では分かっていること、疾うの昔にお互いが承知していることでも、契りを交わした仲だとしても――言葉に出すのは勇気が要る。ヒノエは深呼吸を挟みながら、自分を奮い立たせて意を決した。
「でも、だから……、貴方の悩みも知ってしまったの」
俄に熱くなった目頭を押さえることなく、ヒノエは声を絞る。
「怪異が舞台装置ということ、そしてナイアラルトテップのことも――、貴方の心から知ってしまったの」
人類に秘められた奇蹟。
その真理を思いがけない所で知ってしまった。罪悪感が一層にこみ上げ、ヒノエの胸を苦しめる。
「貴方は……、その眼を持ってしまったから、……みんな貴方を利用した。貴方の幸せなんてこれっぽっちも考えずに。みんな貴方に過度な期待をした。あの大天使も、あの堕天使も、神聖同盟も、ラセツも。……きっと、私もね……」
美辞麗句。
或いは心の底からのお願いだとしても――、卜部の幸せは埒外に置かれていたのは否めない。そう思えば思うほど、ヒノエの頭は重くなった。
「卜部さん、……ごめんなさい」
つ――と伝う涙は、瞬く間に止め処なく滂沱の涙となり溢れ出す。止める必要なんてない、ここには二人しかいないのだから。
「知っていて……、知っていて、知らないフリをしたの。……貴方が辛い役目を負わされて、利用されて! 太歳の因子が漂うあの船で! ドス黒いあいつが貴方を狙っていると分かっていたのに――、貴方を守れなかったの!!」
ヒノエは腹の底から悲鳴のような声を上げ、流れる涙を覆い隠すように卜部の身体に抱きついた。
いや、縋った。
謝罪も後悔も全てを乗せて、物言わぬ冷たくなった卜部にしがみ付いた。
「ごめんなさい! ごめんなさいッ……! 私、……貴方を救えなかったのッ!! ……貴方が、……貴方が最後に、ありがとう、って……。そんな事言われる資格なんて、私には無いのよ……!」
引き絞る指で波立つシーツに涙が滲む。
乙女の謝罪と後悔は、虚しく病室に木霊するばかりだ。
「貴方の悩みも、敵の存在も知っていて、知らないフリをして……、肝心の時に貴方を助けられなかった。そんな私を……許して……」
何度も繰り返す謝罪の言葉が勢いを無くす頃、頭を上げたヒノエは卜部の顔を静々と見つめた。
――何も変わってない。
ただ、静かにしているだけ。
死んでなんかない。強く強く思いながら、微動だにしない卜部の顔に、かつての笑顔と優しい瞳を思い出しながら、ヒノエは静かに口づけした。
冷たい。
でも、あたたかい。
――そうだ。
これでいいはずがない。
ヒノエは涙を拭き身体を起こした。
皆がこの国を離れるこの時だからこそ、決意を、けじめを、願いを――、ヒノエは卜部の冷たい手をもう一度だけ擦り、音もなく立ち上がった。
「卜部さん……、またいつか、って言ってくれたわよね……?」
もう、嘆かない。
窓の外に広がる勿忘草色の青空を見上げ、ヒノエは唇を強く噛みしめた。
「貴方を元に戻すまで諦めないわ。――何年も、何十年かかっても、絶対。……だから待ってて、卜部さん。千年の契り――、必ず果たすわ。いつかまた会う日まで……」




