20-12 黒き御方――NYARLATHOTEP
『……その弾頭を手に入れるのに、結構苦労しましたのよ』
感情を滲ませながら嬉々として語る彼女に、私は一瞬戸惑いを覚えた。
『いいこと? 聖書は一人で書かれたものじゃありませんのよ』
突如として燃え盛り、燎原のごとく広がる焔の中で黒い男が目に見えて慌てふためいている。柱に縛られぬ火あぶり、火踊りに興じるその姿は――、威厳を剥ぎ取られ打ち捨てられた偶像の如く滑稽である。
『人間は小さな怪異、いえ――、異能の集まり。数を熟せば強大な力を有しますのよ。皆が読んだ言葉を信じ、広まることで力を得る。強烈な異能を持った貴方の創造主が作った神話は、他の人に語り継がれて、設定を付与されて奥行きを芳醇に広げていきますの。でも言い換えれば――、うふふ! 貴方も所詮、怪異の端くれに過ぎないのですわ』
黒い男が烈火の炎に狂い踊りながら、狂気の叫びを喉奥からひり出している。頭を鷲掴み、地獄の炎に苦しみながら身悶えする作られた演者。
『ば、馬鹿な……! 馬鹿なッ! 馬鹿なッ!』
『他人が作った話のせいで、弱点が刻まれるのはよくあるんだよねぇ。異教の神は零落し悪魔と成り果て、神聖性の剥奪は弱点を露呈させる。――ルシフェルのようにね』
蹲るように大和の舳先を支えているルシフェル、その肩の上で大天使が傲然とほくそ笑む。
『……貴様は、所詮、……新参者よ。蓄積が物を言う、この舞台では……まだまだ、未熟』
胸を貫かれながら大悪魔は生き続ける。その生命力の源は読まれ信じられた数の暴力。目の前で繰り広げられる怪異達の狂宴に、私は力無く信号拳銃を甲板に落とした。
「『ウラベ――、これは……』」
振り返れば、隊長達が驚愕の表情を浮かべていた。どうやらこの会話はあの夜の密会に参加した者だけを選別して発せられているようだ。
秘密は守らなければならない。
真理を知る者は、少ない方が良い。
私は静かに首を振り、燃え盛る黒い男を見つめた。腰砕けに膝を突き、慟哭し、悲鳴を上げる深淵の使者は虚しく呪詛を吐く。
『こ、このままでは、終わらぬぞ――! 愚かなる人の子めェッ! ……影は、……狂気あるかぎり……』
『うふふふッ――! そのまま消え去りなさい、この新参者めが』
冷酷な女王の宣下に、黒炭となった黒い男が前のめりに倒れ込む。炎は今だ容赦なく燃え上がっているが、黒い男はその形を保ったまま――、ピクリとも動かなくなった。
――静寂。
何という静寂であろうか。
頬を撫でる潮風。漂う硝煙の香り。戦いの終わりを告げる寸時の静寂に、私は眼前にそそり立つルシフェルとサリエルを見上げた。傷跡生々しくとも、その意気に陰りは見えず、大きな翼をはためかせている悪魔と天使。
交錯する視線に大きく頷く。
人と悪魔が無事を安堵している。
我ながらおかしな事だと笑みを浮かべた。
――その時。
出し抜けに身体が大きく揺さぶられる。
忙しない重力の働きにはうんざりだが、波を砕いて進む力を無くした船体がぐらぐらと大きく揺れ始めた。地震にも似た上下左右の揺れが、金属と岩石の破砕音を伴って、私達を弄ぶ。
「『……ッ! これは……!?』」
「『い、いけないですッ! 船体が――!』」
キャサリンの悲鳴じみた叫びが脳内に劈いた。振り返れば、大きく歪んだ艦橋が……細かい黒い煙じみた粒子を吹き上げながら、バラバラと崩れつつあった。
――艦橋だけじゃない。
甲板も、煙突も、主砲塔の一部に至るまで全てが歪み、煙に似た瘴気を吹き上げている。
「『やべぇぞ! 船が沈むぜッ!』」
マイクの絶叫に合わせ、隊長が空かさず指示を下した。
「『……総員退艦せよッ! 付近には支援部隊のボートが展開してある。武器弾薬は置いて即座に飛び込め! 甲板にいる支援部隊も同様だ! 急げッ!!』」
「『クソッ! みんな、走れッ!』」
風雲急を告げる事態に、つい数瞬前までの余韻などない。誰もが即座に銃器をガチャガチャと落とし、エススに近い左舷側に皆が走り出す。
しかし、ヒノエは――。
「『デービッド! 博士! そっちは!?』」
『大丈夫だ、ウラベ。支援部隊と合流済みで、既にボートまで送ってある。私達の心配は要らない。それより君達も船の沈没に巻き込まれるんじゃないぞ』
『……ありがとうございます。それでは』
頼もしい言葉に欣然と安堵が同時に沸き起こり、自然と口角が上がった。クラウディアの俊足を筆頭に、牧野さんも駆け出している。
私も急ごう――。
そう思った途端、脚が突然動かなくなった。
前のめりになりつつ足下を見ると――、あぁ、そんな……。
黒い、何処までも黒い原形質めいた何かが、私の足に纏わり付いている。ぬらぬらとした輝きに見覚えはある。
色で分かる。
こいつは――。
『逃がさぬぞ……、ウラベ』
「――貴様!」
私の眼に飛び込んでのは、形をなくした怪異、黒い塊となったナイアラルトテップが私の脚をがっちりと組んでいる光景だった。往時の勢いや覇気はなかれども自由自在に形を変え、ずるりと下半身から心臓に至るまで瞬時に這い上がってきた。
そして――、嗚呼、気味が悪い。
原形質状の塊が私の胸で僅かに盛り上がり、先程まで肉肉しく見ていたあの顔が盛り上がって形を成す。胸に浮かび上がる顔は、私と視線を合わせることもないが吐き気を催すグロテスクさだ。
『……其方の異能は魂の深淵にある。……憎悪、憎悪だ! 拭い去れぬ絶望がある限り余は消えぬ。余の化身として其方を取り込ませてもらう。さぁ――、余と合一するのだ』
「『ふ、巫山戯るな!』」
刺すような痛み、締め付けるような苦しみ。
あの懐かしく吐き気の催す痛みが足の先から上半身まで襲いかかってくる。蝕まれていく身体から、こいつを必死に引き剥がそうとするが、とても生身の腕でどうにかなる様子じゃない。
崩れゆく戦艦大和の甲板で、轟音と振動に揺られながら舷側に辿り着いた皆が漸く私に気づく。視線を上げると、全員が恐懼に口を開いている。
「「「『『『ウラベッ!』』』』」」」
「卜部さんッ!」
「『――来るなッ! 行くんだッ!』」
もう遅い。
身体の半身を既に人質にされたようなもの。あの火力で討伐できなかった相手だ組み付かれた時点で、今更どうしようもない。それに――、もう時間がない。目に見えて甲板が大きく拉げ傾き始めていた。
『其方が生きている限り、心の闇は消えぬ。闇が消えぬ限り余はあり続ける。……生きていたいであろう? なれば合一せよ。共に世を滅ぼそうでは……』
「『――黙れッ!』」
足場が大きく傾く中、全身全霊を込めて叫んだ。
「『お前の甘言にこれ以上付き合う気はない! ……この世の苦しみも喜びも、全部この身体と共にあったんだよ! だから――、お前が心に落ちた闇で、生きている限りこの世に顕現し続けるなら――、撃ち貫いてやるさ!』」
この眼で。
この邪眼で。
私の命ごと。
『き、貴様――』
ほんの一刹那、瞼を閉じた。
走馬灯も必要ない。目眩く思い出なんて必要ない。
必要なのは、――彼女の笑顔。
私の愛すべき黒衣の巫女。
それだけでいい。
首を傾げ、覗き込んだ己の胸に――、不可視の弾丸を撃ち込のだ。
『や、――やめろッ!』
「「「『『『――ウラベッ!!』』』」」」
仲間の叫びが耳を掠め、怪異の悲鳴が脳髄に響く。
再び崩れる帝国の残影と、世を滅ぼさんとする黒き塊を道連れに――。
だが、これでいい。
悪くない人生だった。
みなの顔を見れば分かる。
後悔することなんてない。
だから――、爆ぜてくれ。
俺の心臓よ。
もう、悲しみを生まないために。
『卜部、さん……』
――ヒノエさん。
――ありがとう。
またいつか――。




