20-5 黒き御方――NYARLATHOTEP
「ねぇ――、ウラベさん」
穏やかに耳に馴染むヒノエの声。しかし、目の前のヒノエの顔は名状し難いほど陰鬱に、闇を溶かし込んだような笑顔だ。およそ人間がするべき――、いや、出来る顔ではない。
「私、嬉しいのよ。貴方と一緒になれて」
伸ばされた細くしなやかな指。
その先は私の頬。
するりと滑る掌は身の毛がよだつほどに冷たく、汗を滲ませる私の皮膚を凍らせる。身体が――、喉が――、岩のように硬直してしまっている。
「あの戦争の最中、貴方が大陸で苦しんでいた時からずっと見てきたわ。陸軍に絶望し、怪異を信じられぬ人々に絶望し、この世の全てに絶望し……、生きるのを諦めていた貴方を私が救った」
声が――出ない。
「でも……嫌、でしょう? 美辞麗句を重ねても、誰かに利用されるのは?」
耳元を掠める嫋々たる吐息。
かつて重ねた唇。
溢れ出るのは――呪い。
「タケミナカタに会う前、貴方の家に忍び込んで忠告したでしょう? 神聖同盟も上辺だけ。ラセツなんてあの姫でしょう? 貴方の異能を恐れ、統制下に置きたいから甘言を弄してるだけよ。貴方だって――気づいてるんでしょう? その眼のある限り、この世にいてはならないことを」
心安らかなる安寧の日々、既に今は昔。私の家で影のように姿を消したヒノエを思い出しながら――、歪に上がった彼女の口の端に、遠くなった平穏は見通せない。
「貴方の死を望む人なんてごまんといる。もう平凡な世界は見えないでしょう? 何もかもが色に染まり、全てを穿つことが出来る……、そんな貴方が出来ることって何なのかしらねぇ」
冷たい指先が、私の唇をなぞる。
「怪異討伐? 人々の平穏のため? ――茶番よ。ぜーんぶ茶番。どんなに高尚な理想があっても、大日本帝国は亡び、敗残の恥辱に塗れ、怨嗟が渦巻く敗戦国の現実は変わらないわ。神聖同盟のお嬢さんも、姫も、永久の闇に怯えながらお互いの血肉を食みあう愚か者達よ」
フフ――、と白い歯を覗かせる。
「でもねぇ、ウラベさん。貴方は違うわ。分かっていながら茶番に付き合っている度量があるわ。貴方はもっと別の見たい世界を望んでいる。だからこそ――私は目を付けたの」
冷たい眼差しに心肝を射貫かれる。
あぁ、そうだ。私は、私が見たいものは……。
「不条理と不合理が渦巻くこの世界を破却し、ありとあらゆる人間を渺茫たる不幸の荒野に叩き落とし、全人類が慟哭する死の世界――でしょ?」
「……あ、……あぁ……あぁ……」
世を覆う破滅の風。
末法の世に相応しい叫喚の大地。
目も眩むような憎悪。
あの地獄の戦場と雪がれぬ汚辱の中で――この世の破滅を願った。太歳を目撃し、生き残った時の薄汚い安堵に心の奥底でほくそ笑みながら、不合理の破却……いや、全世界が苦しみの中に沈めば良いと願った。
おくびにも出せない、光も射さぬ心底を――見抜かれた。
その暗闇から救ってくれた人に見抜かれた。
「……良いのよ、ウラベさん。私は貴方を卑下なんて絶対しないわ。正直に願うべきよ、全てを作り出した人類の不幸を」
怪異――。
それは人によって作られた舞台装置。人間を苦しめる人間が作り出した存在。私を不幸に陥れたのも――人間だ。
「でも、貴方の願いを叶えるには試練が幾度も必要だった。――中国妖怪の馬腹が立川にいる訳がないでしょう? 戦争が終わって皆悲劇を忘れようとしているのに、今更怨恨で古き神が暴れる訳がないでしょう? ……それにね、あの加藤大尉も、ちゃんと役割を熟してくれたのよ。貴方が絶望を思い出し、人に呪われながら利用されている現実を、ちゃあんと示してくれたもの」
吐き気を催す満面の笑みが、顔のすぐ近くに寄る。私の愛しているヒノエの、絶望的なまでに歪んだ欣然の笑みに、三度背筋が凍り付く。
「ま、まさか――」
黒き御方。
黒衣の巫女。
「お、お前が……」
破顔した彼女は、けらけらと笑いだした。
「うふ、うふふ……。そうよ、ウラベさん。――でもね、いいの。貴方の力で貴方の願いを叶える為に、この遺物を誂えたのよ。ユーラシアの彼方此方で時間を掛けて因子に捕らえられた魂達を集めに集めたのよ。怨恨と雪辱を望む魂達が揺蕩い、人の手では絶対に沈められないこの巨大な爆弾に詰め込んで、ね」
平衡感覚がずるりと捥げる。
真っ直ぐ立ってられない。ここは、ここは――。
「太歳の因子は引かれあう。大戦から内戦にかけて陰の気が充満し、さも当たり前のように露出しつつある太歳にこの船ごとぶつけてやれば――、ね? ふふ、貴方の望む世界が近づくわ」
運命を弄ぶ死の因子。人の生を歪ませ、不運と絶望を撒き散らす怪異の河。私だけじゃない、不運にも集められた魂が成仏することも出来ず、太歳に戻ることも叶わず――、この牢獄に閉じ込められているというのか。
「そ、それは……駄目だ」
錆び付いた喉頭を引き絞る。
今、意を出さねば――私は。
「さっき言った言葉……、あの日、交わした契りは嘘だったの?」
眉を顰めながら流し目で私を見つめる。
――千年の恋。
――千年の楔。
私のために。
僕のために。
私の愛したヒノエは――。
「ねぇ、ウラベさん」
突然、彼女が細い両腕で私の両肩をトン、と押した。平衡感覚を失った身体は、情けないほどに腰から砕け、鉄板が剥き出しになった床に仰向けに倒れた。天井の丸電灯がチカチカと瞬き、彼女は大股を開いて私の身体に馬乗りになった。
「なッ、なにを――」
「うふふふふ、ウラベさん。一緒になりましょう? 身も心も」
あの時のように。
秘密の園の艶事。求め合う身体を邪魔するものもなく、全てを委ねた情事。脳裏を過る恍惚が、戦艦大和という絶望と綯い交ぜに目頭を熱くする。黒い千早をさらりと開け、胸元緩く真白き肌を覗かせながら――。
「私と貴男だけで、荒涼とした絶望の荒野を睥睨するの。愚かなる人の子の悲痛な慟哭が、叫喚が、頭いっぱいに響く世界で――永遠の命を以て世界の全てを苦しみと闇に沈めるの。貴方を苦しめた全ての人類を見下しながら、ね。だから――」
吐息が。
舐めるような視線が。
「――合一しましょう」
心肝の破滅願望を擽りながら私の顔に近づく。
――その時。
僅かにヒノエの身体が揺れ、すぐ近くで音がした。ドンッ――と鈍く、生々しい摩擦音が耳にこびり付く。
今、眼前を覆う黒き巫女の身体がピタリと止まった。
私の鼻先、ヒノエの胸の谷間から――白い光を帯びた鋭利な白刃が仰々しく突き出ていた。




