20-4 黒き御方――NYARLATHOTEP
――暗い。
――痛い。
いつもこうなんだ。
新橋の時もレフチェンコの時も。あぁ、思い出すだけで嫌になる。闇は常に私を苛み傷つけるのだ。頬に伝わる冷たい滑り。磯臭さが鼻腔を突き刺す。こういう不快極まりないものどもが、いつも闇には蠢いている。ピチ、ピチと甲高い水滴の音が澄み渡り、洞窟のそれに似た気味悪さが「静から動」へ移る私の意識にじわじわと侵食していく。
俯せからの起き様に首を左右に振る。
――意識を失っていたのか自分でも分からない。身体が重力に引かれ、体勢を取ることも叶わず全身に痛みが走り、それから意識は途切れていないはず。確証はなくとも、時間的連続は痛みの度合いからも知れる。
「『……ここは……』」
辺りを見回す。
ありとあらゆる人間が怯える深淵の闇――、ではない。本来であれば漆黒が蹲る畏怖すべき闇であろうが、――私には見える。薄墨色にぼやけた赤みがかった霧があるものの、ハッキリと通路の筋が浮かび上がって見える。
邪眼の由。
見える人工的構造物から察するに、……大和の廊下に違いない。詳しい意匠までは聞いていないが、無骨な鉄骨や砕けた鉄片が散乱する様を見るに、護衛空母の廊下が天国に思える。きっと最上甲板に空いた穴から、上甲板であるこの廊下に落ちたのだろう。
自分の身の回りをまさぐれば、……機関銃がない。肩から掛けていたはずだが、『髭切』だけはしっかりと背に重みを伝えている。通路のど真ん中で、前後を見ても機関銃らしい物は見当たらない。あるのは戦禍の傷跡だけである。
「『誰か……! 聞こえるか?!』」
誰何に応えはない。
――そんなことがあるか。
隊長が言っていた通り、この戦艦大和周辺および甲板に霊的分離不能石の通信網を張ったはずだ。距離を考えれば、エススのバーナードにすら届くはずだ。
「『誰かッ!』」
虚空に吸い込まれる声に、うら寂しさを通り越し怖気が頭から降って来る。そんな中で手持ち無沙汰はとてもじゃないが心許ない。『髭切』の柄を握り、抜刀せんと組紐を前に引こうとした時――。
『ウラベさん……、こっちよ……』
か細く微かな声が脳裏に反響する。
「『ヒノエさん? ――無事ですか!?』」
見回せど彼女の姿は見えない。
『私は…………大丈夫。貴方の場所は見えているわ。そこから真っ直ぐ歩いて……右側に大きな部屋が見えるはずよ……』
心なしか生気が無い。
いつもの艶やかさも褪せている。
「『大丈夫ですか、ヒノエさん。具合が――』」
『大丈夫』
健気というより卒然と、二の句を継がせぬ声だった。
『そこまで来て。私は動けなくて……』
姿の見えない彼女の声に、背筋にピリッとした震いが走った。どういう状況であれ――、彼女が不測の事態に陥っていることは確かだろう。
「『待っててくれ、今すぐ行く』」
視界には赤い霧が立ち篭め、仄かに浮かび上がる直線的な線分に導かれる。隔壁として機能する水密扉も、閉めてくれる人を永遠に待ちながら呆然と口を開けている。中には閉まっている扉もあるが、いずれも黒い結晶が所々、栓をするようにびっしりと生え広がっている。
艦内は螢光燈という新型の照明機材が所々で使われていと聞いたが、この長官公室に繋がる廊下も照らしていたのだろうか? 今はただ闇が、――私にとっては赤い霧が渦巻くだけの薄気味悪い通路に過ぎない。
……数分もかかっていない。
いくつかの隔壁を越えたところで、どうやらそれらしい空間が見えてきた。扉はなくなり、一見ただの部屋であるが――覗き込むと明らかに他の通路の造りとは異なっていた。
二十畳程か。奥に長い長方形のこの部屋は、壁側一面に長椅子が備え付けられ、壁には舷窓が規則的に配置され、丸い窓枠が豪壮に飾り付けられている。もっとも、窓は黒い結晶に覆われているのか一片の光も差し込んでいない。下を見れば、絨毯敷きだったのだろうか? 床の端々に切れ端が散在し、部屋の片隅には大きな長机の残骸が2つほど折り重なって朽ちている。
がらんどうになった長官公室。
それでも、おかしい。
天井だ。丸い穴の空いた鉄骨の梁が幾つも垂直に交差し、一見倉庫のようにも見える。そこに備え付けられている丸い電灯が壊れていない。壁に備え付けられた時計も、電話機も、貝が付着したり黒くくすんだり、ありとあらゆる物が朽ちている中で、丸電灯だけがハッキリと形を残している。
タラップ――。
誘われている――。
「『何処だい? ヒノエさん……?』」
訝しげに部屋の敷居を跨ぐと、途端にヒノエの声が脳裏に響いた。
『ねぇ、ウラベさん。……私のこと、愛してますか?』
「『え……?』」
――何を。
「『何を言っているんだ、ヒノエさん』」
長官公室の真ん中まで進んだ所で、広い部屋を見渡しながら声を掛ける。彼女の姿は、いつもの白い輝きは何処にも見当たらない。
『言えないの?』
ここにはいないのだろうか。
いや――、それ以前だ。こんな所で何を問うているのだ?
「『い、いや……、そうじゃない。どうしたんだい? 一体何故……?』」
『ねぇ、……お願い。言って』
か細い懇願に憐憫の情がふつふつと。
全然彼女らしくない。いつもの凜とした声のハリもなければ、心を抉るような皮肉もない。だからこそ、こんな哀願の如きか細い声に何かの事情を察するべきか――。
「『…………分かった』」
――愛している。
たった一言、呟くように声を沈めた。
本心であることに間違いはないのに口にして、心にずしんと重い何かが降りた。疑念と猜疑が交じった愛の告白をさせることに何の意味が。彼女は――。
『……そう。嬉しいわ、ウラベさん。でもね』
――私が全てを仕組んでいたとしても?
脳髄に高音と重低音の声が、重なる。
男の声と女の声。
あの声、が。
突然、唯一朽ちていなかった丸電灯が、パチ、パチ――と明滅しだした。本来の塗装が残る壁の白が、床に残った赤い絨毯が、黒く朽ちた長机が、全ての色を取り戻す。その明滅が幾度か過ぎた頃だ。
一瞬の暗転の間に、彼女が――。
何もない空間に。
いないはずの目の前に。
背筋を凍らせるほど、禍々しい赤黒い瘴気を後光に。
見る者の嫌悪が避けられぬほどに、嫌らしく口の端を歪ませた彼女が、こちらを細い眼でじっ――と私を見つめていた。




