20-6 黒き御方――NYARLATHOTEP
「『それ以上……、その汚らわしい手で、卜部さんに触れるなッ……!』」
引き絞るような叫びが響き渡った。ヒノエの後ろにヒノエが――身に纏う何もかもがボロボロに傷つきながら、震える両手で錫杖を突き立てている。
青息吐息に身体を震わせながら。錫杖の尖端に付けられた鋭利な白刃が、馬乗りになっているヒノエの胸から突き出ている。怪異を滅ぼす神聖化された刃が瘴気を漏れ出させる。
『――ほぅ、シャンタク鳥どものあの空間を突破してくるとは。中々ではないか』
恐ろしく上から見下した言葉を捨てると、馬乗りになったヒノエが突き出た白刃を意にも掛けず、すッ――と立ち上がった。刃ごとすり抜け、支えを無くしたヒノエが私の左横に倒れ込む。すり切れ、肌が露出し、生々しく血が滲む擦り傷の数々――。彼女の吐息から感じるまでも無い。
『態々、死に場所を誂えてやったというのに……、其方らは常に醜く抗っておる』
ヒノエとヒノエ――。
目を疑う現実を咀嚼する間もなく、仁王立しているヒノエの全身という全身からドス黒い瘴気が突然に泡立った。先の馬腹達のような禍々しさが眼前でうねる。
すると、俄に瘴気が晴れ――男の、真っ黒な、何処までも引き摺り込まれそうな程に真っ黒な皮膚、顔、ローブを纏った男に姿を変えた。
毛の一本も見当たらない真っ黒な禿げ頭に、彫りの深い顔立ちは妖艶なモアイ像といった風情だが、皮膚よりも更に黒い、白目も存在しない漆黒の眼は――あの映画館で観た深遠の宇宙を彷彿とさせる。
真一文字の口から溜め息すら漏れない。
『抗うのは人の性か? 余には分からぬな』
威丈高に睥睨するその態度に、ヒノエが振り絞って意を発する。
「『……なんでも、思い通り、なると思ったら、……大間違いよ。……人間はね、あんたには分からないでしょうけど……、強いのよ』」
『やれやれ――、身の程を弁えぬ浅ましき人間だ』
突然、黒い男はヒノエの脇腹に勢いよく足蹴りを喰らわせた。
「うッ……!」
「『き、貴様ッ――!』」
よくも……!
カッと顔が熱くなり、頭の毛がビリビリと逆立つ感覚が走った。声が自然と荒くなり、反射的な起き様に睨み付ようとしたが――。
『おっと』
まるで忘れ物を思い出したかのような、気の抜けた言葉を漏らしたと思うと、黒い男がヒノエに向かって手を伸ばした。すると――、ヒノエの身体が突然立ち上がった。いや、立たされた、だろう。まるで傀儡師が自分の傀儡を引っ張るように、いとも容易く彼女の身体は黒い男に捕らえられた。
黒い男がジリジリと後退し、背を強く押さえられたヒノエが、――人質となったヒノエが、苦悶の表情を浮かべている。奴の汚らわしい指先がヒノエを捕らえ、柔らかな頬をなぞる。
『この女の苦しみは、全て其方の蒙昧な判断から生まれておる。今もこうだ。――など斯くも抗う? 其方の望む景色は、人の世にあらざる深淵に近しき絶佳よ。抗うな、受け入れよ。さすればこの女も助けてやろう――』
ヒノエの顎を黒い男の指が持ち上げる。己の所有物を意のままにするが如き狼藉に、怒りと不甲斐なさがぐつぐつと胸底で沸き立つ。
「『騙されないで……、こいつはただ、貴方を太歳の起爆剤に……』」
『無駄だ。この男は全てを理解しておる』
作られた存在。
創造主の弱さ。未熟さ。
そうだ……、分かった上で彼女を救うかどうかが問題なのだ。彼女の命か、心底に蹲る破壊願望か。この男の言葉を信じるなら、その両者は背反しない。
だが――。
『其方は決してこの女ごと私を穿つ事を選ばない。それに、其方の邪眼が幾ら優れて人理を越えた力を持っていたとしても、私は即座にこの女を殺せる。なれば……お前が我が身、化身の一つにならんと欲するならば、――この女を助け、他の者どもも助けよう』
「『卜部さん――、お願い、……射貫いて。こいつをその眼で、殺して――』」
悪魔の誘惑。
千歳に愛する者の願い。
嗚呼、相反してしまったのだ。
私は――。
『迷うな、人の子よ』
不意に声が脳裏に響く。
――聞き覚えがある。脳髄を揺さぶるように強く、低い男の声。続けて――聞き慣れた優男の声が響く。
『そんな新参者の口車に乗せられるようじゃ、駄目駄目だね君ぃ。そんなんじゃ愛する人も守れないよ』
まさか――。
驚き、辺りを見回した刹那。
余りにも短兵急だった。バンッと弾ける音が空気を振わせ、真っ黒な舷窓と壁諸共を――何か巨大な物体が突き破ってきた。聞くに堪えない金属音と、パラパラと密室を舞う砕け散ったガラス片が、一瞬の暴風と共に私達に降りかかって来た。
だが爆発じゃない。砲弾でもない。
それは――、指。
腕で覆った瞳から見遣れば――、巨大な、あまりにも巨大な、ツキノワグマを彷彿させる程巨大な肉と毛の塊が丸い舷窓を突き破り、鋼鉄製の壁をしっかと握っている。こちら側に突き出た黒曜石じみた爪は、悪意を感じさせるほどに反り返っている。
「『な――』」
一刹那、長官公室の天井が一面でバチバチと火花が散ったかと思うと、身体が吸い込まれそうになるほどの豪風が身体を揺さぶった。何が起きたか全く解釈する余地も時間も無く、暴風と轟音、飛び散る金属片に腕で苦し紛れに顔を覆うばかりだ。
而して、光あれ。
風に流れる塵埃の先に見えるは――、巨大な手。長官公室の天井を、この堅牢強固な巨大戦艦の甲板を引き剥がした――ようだ。眼前に広がっていた漆黒の壁は既に無く、見上げれば遙かなる曇天。
そこに――。
『頼りないな、人の子よ』
眼前を覆う赤黒い身体。見上げるほどに巨大な――、あぁ、悪魔としか形容しがいがない。筋肉がゴツゴツと隆起した毛深い身体、髭面、全てを睥睨する真っ赤な瞳、六枚の翼――。
「『ルシフェル――!』」
現世に降臨した悪魔王が、小さな小さな私達をギロリと睨み付けていた。




