18-4 LUCIFERO(天使と悪魔)――旧参謀本部跡
ルシフェル。
ダンテ・アリギエーリの『神曲』を読んだ折、訳語では「ルーチーフェロ」と呼ばれていたが、伊太利亜語の翻訳に伴う差など問題になるまい。『神曲』では地獄の底、第9階層コキュートスにてイエスを裏切ったユダ、そしてブルータスをスルメのように囓っていたはずである。
6枚の翼――。
明けの明星、輝く者、光をもたらす者。
転じて堕天使の長、悪魔王、主に刃向かいし者。
デービッドやキャサリンに教えられた「その名」は体を現す。
『堕天した熾天使の最高位。神に背いた者……ですか』
『フン――。そう呼ばれておる。だが人の子よ、早速だが貴様を』
ゴキゴキと気味悪く首が鳴り響く。威嚇的に「あぁ――」と息を漏らす。
『この場にいて良い者か、確かめさせて貰うぞ』
「『……? 何を』」
そう呟いた途端。
ルシフェルの翼が唸るように小刻みに震え出した。呼応するように星も風も無い凪いだ廃墟に、一陣の風が音を立てて吹き荒ぶ。灰と埃が立ち上がり、瞬時の噎びを覚える。
一体何をする気だ――?
眼を細めながら奴の姿を見ると、僅かに翼が揺らいでいる。
『――遅いッ!』
眼にも止まらぬ――とはこのことだろう。身動ぎ少なくして胸を張ったかと思えば、押さえつけられたバネが弾けるように奴が跳ねた。巨躯であることを微塵も思わせぬ俊敏な跳躍。爆発的な勢いはクラウディア、いや、人間の熟せるそれではない。
その向かう先は一直線に――、私。
豪風と轟音という砲弾の壁に体位が虚しく崩れ、現実と非現実を隔てるグラスが暗闇の虚空に弾け飛ぶ。
驚く暇も避ける暇も無い。風と共に飛び込んで来た巨躯が、眼前を覆い尽くす巨躯が――、殴りつけるような勢いで私の胸座を乱暴に掴んでくる。あらん限りの力で殴られたと錯覚するほどに乱暴的に。真っ赤なスーツから伸びた赤黒く輝く手は、まるで巨大クレーンだ。
「ぐッ!」
――脚が浮いている。
呼吸が出来ないくらい苦しい。
『どうした? このまま縊り殺されても良いのか?』
「『やめろ! ルシフェル!』」
「『お主、何をッ!?』」
驚きを交えた怒声が浴びせられるが、こいつの豪腕は一向に力を緩めようとしない。私は虚しく足をばたつかせるだけで、隆々と筋肉が盛り上がった豪腕は微動だにしない。
『さぁ、貴様の武器はそれだろう』
深紅の瞳が息を詰まらせる私を鋭く睨む。
――どういう意図であれ。
その豪腕を強い意志として私にぶつけてくるのならば。
「『そんなに……、そんなに見られたきゃ、見てやるぞ……!』」
目の前、暗闇の中に赤黒い輝きを放つ顔。パレス・ハイツの僅かな灯火に照らされた美顔。その綺麗な顔目がけて、脂汗が滴る中、強く強く念ずる。
窒息する苦しさが殊更に念を強くする。
死ね、爆ぜろ、砕けろ、朽ちろ――と。
僅か1米もない距離で、今までの怪異同様に呪い殺す勢いで念じる。
『ぬ――』
俄にルシフェルのマネキンのような顔が歪む。
苦悶の表情を浮かべて唇を噛みしめる。眉間には深い皺が寄り――。
「『――ば、馬鹿な!』」
思わず声が腹から出た。
顔が歪んだんじゃない。表情が歪んでいるだけだ!
あのダゴン――40粍機関砲ですら傷が付かない装甲を、邪眼は歪めて捻り、穿ったはずだ。あの時と同じほどに呪い、忌み、殺そうとしているのに……。
息が出来ない苦しみが募れど、幾ら視線で射殺そうとしても――ルシフェルの顔面には血管がびくびくと浮き上がっているだけで、それはただの苦痛に歪む顔でしかないのだ。
『ふむ……、中々であるな。この結界の中でもこれほど強い力を発揮できるとは』
しかし、表情に似合わぬ言葉が漏れる。
声色穏やかに冷静に私の邪眼を評している。
『……ルシフェル、その辺で辞めていただきたい』
『そうじゃ。これ以上は何も利がないではないか』
スティグラー博士と滝夜叉姫が、僅かに感情を含ませたような言い方で悪魔王を諭す。
『……よかろう。人の子の力は分かった』
動から静へ。
スッ――と豪腕から力が抜け、身体がゆっくりと地面に降ろされる。体躯は見上げるほどに大きい。
隊長が仁王像ならば、こいつは阿修羅像だ。澄ましたような顔をしながら、その実、帝釈天に刃向かった悪鬼神だ!
「『い、一体何故――?』」
ゲホゲホと咳き込みながら必死に呼吸を整えた。
『先も申したであろう。当代一流の秘呪を用いて、この参謀本部跡には強烈な結界を張っておる。お主の邪眼と言えど、――こやつの力と言えど、双方共に元来の力は発揮できぬ』
髑髏がカタカタと顎を鳴らす。
『本来の目的は邪魔者が入らぬように、なのだが……悪い癖は直した方が良い』
『フン――』
そっぽを向いた悪魔王は翼を揺らめかせながら、再び元いた壁にふわりと舞いながら戻っていく。空中を自由自在に飛べる、人型の強烈な怪異。演者としても一流なのだろう。
『何も知らず、何も力を持たぬ人の子では、この場にふさわしくないと思ったのでな』
ふさわしくなければ命までも奪われるのか……?
武器も持たずに呼ばれた客人身分としてはあまりに物騒である。
『我が名を知り、人の子の同盟に身を置き、優れたる異能を持ち合わせながらこの世の理に身を置く。貴様は知っておるのか? 名もなきバビロン王が天より落ち、後世の人の子が勝手に講釈を垂れ――』
その言葉に博士が語気を強めに遮った。
『彼なら知っている。舞台装置は人の業だ』




