18-3 LUCIFERO(天使と悪魔)――旧参謀本部跡
帝国陸軍、参謀本部――。
陛下に直隷する帝国陸軍の頭脳だった組織。内地だけでなく、四方の海を跨いで展開する陸軍全部隊の作戦指導、勅命の伝達はここから為された。
明治以来の輝かしい栄華。
今は昔の虚しき廃墟。
唇を僅かに噛みしめながら、籠を持った博士に続く。博士が徐に米軍支給品のL型ライトを取り出した。煌々と闇を切り裂く懐中電灯に照らされて、暗闇に浮かび上がる廃墟は、その黒々とした戦火の傷跡をさめざめとした声色で嘆き悲しんでいるようだ。
正面に乗り付けたタクシーから、左側の石柱門の間を抜けてずんずんと登っていく。草木が生い茂り、昔日の栄華は煤と冷気に包まれている。この焼け跡は何処にも所管が決まっていないせいか、幾人か浮浪者が入り込んだりしていたはずだが……。
『……ここにいた人達は?』
『なに、殺してはおらん』
――当たり前だ。
『滝夜叉姫とイサワ氏の協力で、人を寄せ付けぬ結界を張って貰った。邪魔者が来られると困るのでな』
伊沢――。
とことん扱き使われる奴だ。出来る奴に仕事が回るのか、ただの便利屋扱いか。いずれ彼の苦労が偲ばれる。
『参謀本部――ですか』
『何か思うところがあるのか?』
『いえ。ただ……、日本人なら誰でもそうですよ』
灰燼に帰した帝都。
錆び付いた瓦礫と寄る辺なき人々の群れ。
絶望的な静寂と怨嗟の声を目の当たりにすれば、ここにいた人間達に良い感情なんてあるはずもない。
『あぁ、それなら打って付けということか』
『ほほほ――、そうじゃな。雲隠れしておる邪な気にあてられぬように、お主も気をつけよ』
『……どういうことですか』
足下暗く覚束ない。この眼は通常の人間より闇を見透かすはずなのだが、どうにも不思議な眩暈がする。闇を零したようなアスファルトがぼんやりと白を纏っている。博士のライトと己の眼を頼りに地面を踏みしめながら髑髏の姫に問うた。
運転手の制服を着込んだ骸骨は、器用に首だけをこちらに向けて……笑う。
『気づかぬか――? お主の眼なら見えよう』
その言葉に、土気色の庁舎を見上げる。
庁舎の北側がぼんやりと赤く輝いている――。
影絵のように黒を纏い、深紅の輝きが恐る恐る立ち上っている。
『……あれ、ですか』
『ウラベに見えるなら心強い。行こう、彼が待っている』
『彼――』
悪魔との密談。
『行けば自分から名乗ってくれるだろう』
或いは言わなくても分かるかも知れない。
闇が立ち篭める虚ろな廃墟。濛濛と立ち上がる輝きは、それだけで脅威の度合いが何となく察せられる。加藤大尉と比肩も出来ない。――濃い。
参謀本部建屋の扉は消え去り、がらんどうになった廃墟は古ぼけた石碑を残した廃寺院の風体である。いや、何処も彼処もこういうものなのだ。廃墟に美学を求めるのは可笑しいだろうが、得てして戦争の惨禍は静寂と錆落ちた人造物という混合物に現れる。
焦げた煉瓦壁。
真っ黒に燃え堕ちた柱の数々。
僅かばかりの人の生活痕を残して――私を先頭に目的の部屋まで迷わず進む。入口から真っ直ぐに伸びた通路に、射す光は何もない。足下覚束ぬとは思っていたが、造りが整然と直線的であるということは、畢竟迷う心配もない。
気がつけば目的地の目の前だった。
建屋の一番北側。
長い通路を抜けた先、一番奥の部屋は天上どころか壁ごと焼け落ちている。まるで元から大きな部屋だったのではないかと見紛う程、瓦礫と灰燼だけが整然と横たわり、蜘蛛の巣が端々に散見される。水を打った静けさに、黒滔々たる闇が溶ける。
その只中に――、男。
『随分と待たせてくれたな』
血染めにも似た赤黒い色を湛えた男。
身長は六尺半――くらいだ。随分と大柄である。
博士のライトが遠慮無く偉丈夫の男を照らし、漸くその容貌を垣間見ることが出来た。
――金色の長髪が風もないのに僅かに靡く。
女性にも見えるほど肩まで伸びた後ろ髪。前髪の隙間から深紅の瞳が覗く。頞は見蕩れるほどに真っ直ぐ通り、頬骨から顎のラインなどマネキンのそれである。なのに――、僅かばかりに歪んだ眉が不穏にも人間らしさを際立たせていた。
何より目を引くのはその姿。
黒い詰襟シャツに真っ赤な、見たこともない真っ赤なスーツだ。
流行の最先端、モダンな銀座でも歩けないそうにない……。強烈な怪異を目の当たりにしても尚、服の印象が脳裏から表情に出てきてしまうほどに悪目立ちしている。
『約束の刻限は守っている。こちらは5人、全員集合した』
――5人?
ライトを向けたまま憮然と表情を変えない博士を凝視する。
『……そうか、二人は様子見か。しかし――、何も分かっておらぬ人の子がおるようだぞ』
深紅の瞳が私を突き刺す。
邪眼でなくとも見ていて気持ちのいいものではない。いや――、或いは人が見惚れてしまうほどに妖艶というのかもしれない。妖しさと畏怖と艶めかしさを全て綯い交ぜにした人外の瞳だ。
『私は……、貴方が何者かも知らされていないんです』
口元をキツく締め、僅かにグラスを傾ける。
その気になれば射貫くつもりで男を睨み付けてやる。
『ほぅ――、面白い。聞いていた頃より随分と豪気になったものだ。己の傲慢故に堕ちた煉獄の試練か、悲運故に天国にも地獄にも行けず地上を彷徨う運命か、その邪眼で見抜けるものなら見抜いてみせよ。死を招く瞳を深淵とやらに唆されながら、永遠の児戯に耽るのも見物だがな』
――この怪異。
多くの事を知っている。
『この邪眼で見抜かずとも、名さえ聞けば十分です』
演者は演者らしくしてほしい。
全ては人が作りあげた舞台装置ならば、この居丈高に振る舞う厚顔無恥な怪異にも名前があり、それ自身が意味を持っているはずだ。私の降伏にも見られかねない提案に気を良くしたのか、怪異は表情明るめに口角を上げた。
『ふん――、よかろう。たまには自ら名乗るのも悪くはない』
勿体付けた喋りだ。真っ赤な服の怪異は背筋を伸ばす。
その直後――。
男の背中が俄に揺らぐ。
ゆっくりと現れて来たのは羽根。
真っ赤なスーツの後ろから、――どうなってるかも分からないが、鳥が畳んでいた羽根を起き抜けに伸ばすように6枚の翼が広がる。ライトの僅かな光を浴びて、艶やかに輝く黒い翼が後光のように怪異の赤を映えさせる。
『我が名は――ルシフェル』
真っ赤な姿は悪魔王の証、か。




