ep. 35 真っ白な世界
──真っ白な世界だった。
上も下も、右も左もない。どこまでも境界のない純白の空間。足元には薄く水が張っているかのように、俺の足が動くたびに波紋のような光の輪が静かに広がっていく。
……俺は、死んだのか?
魔王ヴルクラッドに追い詰められて、あの青白い炎に焼かれて──。
そこまで考えて、俺は自分の胸に手を当てた。
痛くない。それどころか、あれほど肉体を蝕んでいた激痛も疲労も、嘘のように消え失せている。
混乱する頭のまま視線を上げると、少し離れた場所に見慣れた人影が立っていた。
「……クルエラ?……リノ?……それにヴェルまで」
俺がこれまでに【天再葬蘇】で蘇生してきた仲間たちだ。 三人は何も言わず、ただ穏やかな笑みを浮かべて俺を見つめている。
声をかけようと一歩を踏み出した、その時だった。
三人の手前に、すっと見知らぬ影が割り込むように現れた。
燃えるような赤髪をツインテールに結い、小柄ながらも気の強そうな赤眼の少女。彼女は、呆然とする俺の元へと迷いのない足取りで近づいてくると、不意に小さな人差し指を突き出し、俺の胸をトンと軽く指さした。
「私の力を使ったんだから、一つ貸しね?」
それだけを言い残すと、彼女の姿はまるで煙が晴れたかのように一瞬で消え去ってしまった。
「は……?いや、どういう……」
訳が分からない。
貸しってなんだ。そもそも彼女は誰で、ここはどこで、俺は一体どういう状態なんだ。
次から次へと溢れ出す疑問に頭が混乱する。理由の分からない薄気味悪さに、早くこんな場所から出ていきたいと焦りが募る。
すると今度は、入れ替わるように一人の少年が佇んでいた。茶髪の短い髪に、おとなしそうな黒い瞳。少し痩せているその少年は、困ったように眉を下げて俺に微笑みかける。
「便利でしょ、ボクの眼。練習すればもっと使いやすくなるよ」
「……眼?あ、おい、待てって!」
これまた意味が分からない。少年の姿もまた、言い終えると同時に空間の白へと溶けて消えていった。一体全体、何が起きているんだ。
突き放されるような不条理さに息を呑んだ瞬間、さらに奥から、もう一人の少女が歩み出てくるのが見えた。
淡い桃色の半長髪に、純白のワンピース。袖から覗く腕は折れてしまいそうなほど細く、全体的にとても華奢に見える。その佇まいはどことなくクルエラに似ていた。
少女がゆっくりとこちらに歩み寄る。その神秘的な桃色の瞳が、俺を真っ直ぐに捉えた。
「おはよう」
あまりにも短く、ごく普通の挨拶。
どこか超然とした彼女の空気に呑まれ、俺は毒気を抜かれたように言葉を返す。
「ああ……」
自分の声が妙に遠くで響いた気がした。俺は必死に理性をかき集め、彼女に問いかける。
「あの……ここがどこだか分かりますか?」
「うん、わかるよ。ここは君の心層世界」
「心層世界……?」
「そ。色々あって君はここにいるんだ。──やりたいことも終わったし、もう元の世界に返してあげるね?」
小首を傾げ、いたずらっぽく微笑む少女。その親しげな口調には、まるですべてを見通しているかのような不思議な温かさが含まれているように思えた。
「え? それってどういう──」
「──細かいことは気にしなくていいの。ほら、みんなが待ってるよ?」
少女が顎で示す。言われるがままに後ろへ振り返ると、そこにはいつの間にかクルエラ、リノ、ヴェルが並んで立っていた。三人はやはり何も言わず、ただ優しく俺を見送るように佇んでいる。
「さようなら、また会う日まで」
背後から、少女の涼やかな声が鼓膜を揺らした。
「あ、待ってくれ──!」
ハッとして慌てて後ろを振り返るが、そこには既に誰もいない。ただ真っ白な空間が広がっているだけだ。慌てて視線を前に戻すが、今度はクルエラたちの姿すらも、綺麗さっぱり消え失せていた。
「一体、どういうことなんだ…………」
一人残された空間で、ぽつりと疑問が溢れる。だが、思考を巡らせるための時間は残されていなかった。
唐突に、周囲の輪郭がぐにゃりと歪み、視界が急速にぼやけていく。立っていられないほどの猛烈な眠気と、意識を強引に引き剥がされるような朦朧感が俺を襲う。
ああ──これで元の世界に帰れるんだな。
抗えない浮遊感のなかで俺は本能的にそう察し、ゆっくりと深い意識の底へと落ちていった。
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