ep.30 悪魔の禁書
書庫室の奥へと足を進めながら、俺は棚という棚を順に確認していった。
重く乾いた紙の匂いが鼻をかすめ、静けさが耳を圧迫する。
手に取った一冊『イザベラの破滅写本』──これは違うな。
もう1つ手に取ってみる。『究極の運命論』──これも違う。
その隣に視線を移す。『ドキドキ!シスター直伝<夜の聖魔法>』──おまっ、これはダメだろ。怪しすぎるって。
いくつか手に取っていき、やがて悪魔関連のタイトルが目にとまりだした時、ついに『悪魔存在記録索引』と金文字で刻まれた背表紙を見つけた。開くと、確かに悪魔の一覧がずらりと並んでいる。
だが──。
「……無いな」
ページを何度見返しても、「ヴェル」という名は記されていない。
似た響きの名前はあるが、微妙に綴りが異なる。
ため息をつき、本を棚に戻したその時──背後から不意に声がした。
「おやおや、珍しいお客さんだね」
振り返ると、中年の男が立っていた。黒い法衣に身を包み、肩までの銀髪をきちんと撫でつけたその姿は、いかにも教会の関係者らしい。一瞬、見つかってしまったかと焦ったが、この人はあまり気にしてない様子だった。
「あ、あなたは……?」
「この書庫室の管理者ですよ。いやぁ、冒険者が禁書の棚に来るなんて珍しい。何かお探しかな?」
「あの……」
少し迷ったが、ここで隠す理由もないだろう。
「ヴェルという名の悪魔について調べています」
男は眉をひそめ、「ヴェル……?」と小さく繰り返した。
その瞳が一瞬、遠い記憶を探るように揺れる。
「はて、どこかで聞いたことがあるような……あっ、そういえば──」
何かを思い出したらしく、ぽんと手を叩いた。
「もしかしたら、あの本にあったかもしれません。ちょっと待っていてください」
そう言って背を向けかけた男は、ふと小声でこう呟いた。
「……しかし、あれを“悪魔”と呼んでいいのやら」
胸の奥に、言いようのない引っかかりが生まれる。
“悪魔と呼んでいいのやら”──どういう意味だ?
だが問いただす前に、男は静かな足音を響かせ、書庫の奥へ消えていった。
やがて彼が抱えて持ってきたのは、厚みのある古びた書物だった。革張りの表紙は深い緑色で、金の装飾は擦れているが不思議な気品を放っている。
「これは太古の時代、エルフ族の一人が執筆した歴史的価値の高い書物です」
そう前置きして、男は大切そうに表紙を撫でた。
「今では“不踏大陸”と呼ばれるアルヴァノン……その地において、神話の時代を生き抜いた著者が、自らの目で見聞きした出来事を書き記しています。戦乱、災厄、そして人智を超えた存在との邂逅。まるで生きた証言のようですよ」
聞きながら、俺は自然と息を呑んでいた。
そんな本がこの世に残っていること自体、奇跡のようだ。
「彼はその後、イーシェル大陸へと移り住み、この書物を各地の学舎や教会に配って回ったと伝えられています。ですが、時の流れと共にその数は失われ……今では世界にたった四冊しか残っていません」
四冊──。思わずその数を反芻する。
世界の広さを思えば、ほとんど幻のような存在だ。
「もちろん触ることは禁止されています。状態を保つためにもね。代わりに私が探して差し上げますよ」
そう言われ、俺は頷くしかなかった。
禁書の中の禁書。手に取れないもどかしさはあるが、ここで見つかるかもしれないという期待が勝る。
男は慎重にページを繰り始めた。
厚い紙が擦れる音が静寂を裂き、ひとつひとつの文字が光を帯びるように目に入っていく。
やがて──
「あった、これかな?」
男の指が止まった。そこには確かにこう記されていた。
『ヴェル=ベント』
「原初の悪魔の名だ」
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