第六十四話 世界が(再び)静止する日
寒さは日増しにその勢力を強めていく。
礼一少年は木で出来た洗面器と、タオルと呼ぶには少し粗末な布切れを手に流しへ行くと、水の冷たさに顔をしかめながらそれに水を貯めていった。
「この分だとお湯を沸かしてそれをこっちで埋めた方がいいかもしれない」との考えがすぐに煙のように浮かんだが、それよりも強固なものが頭を占拠して譲らなかったので、それこそ煙のようにすぐに立ち消えた。
それは二つある。
一つは言うまでもなくヨハナの病状。
そして、もう一つは――例のミヤシタのことであった。
既にあの雨上がりの一件から一日が経過した。しかし、額の感覚は未だに消えそうになかった。
額の感覚が消えないということは、つまり心の中の名残も消えそうにないということだった。
あの一件の何がよくなかったかといえば、事件が突然起きて自然に消えたことだ。頭が整理しない内に最も整理しにくい形式で終わってしまったということだ。
そして何より最悪なのは、その事件自体が意味不明であったことだ。
確かに普段から時折不可解なことをすることもあったが、それはあくまで礼一少年をからかうという一点が目的であり、その一つの筋に従って行動しているだけのことだった。
では今回はどうか? ――ミヤシタは、礼一少年をからかうためだ、とやはりそう言ったのだった。
(だが、それは嘘だ)
と、礼一少年は、やはりお湯で埋めようと考え直し、満杯になった桶から水を半分ほどに減らしながらそう思った。
からかうにしても、アレは彼のやり方とは違う。
彼がそうするときはいつだって、礼一少年が一人で転けただけのように見せかけるのだ。一人で勘違いして見当違いの方向に突っ走ったかのようにするのだ。
例えば、最初に出会ったときにヨハナに関しての何気ないセリフで礼一少年を激昂させたように、だ。
そのためにはさり気ない動きが必要で、時には動かない必要すらある。
その基本方針・基本法則は、言葉でいえばカマカケで、行動でいえば足掛けだ。
だが、今回のそれを例えるならば、同じく言葉でいえば罵倒で、行動でいえば背負い投げだった。
商人の嫌みったらしいやり方ではなく、野蛮人の直情的なやり口だった。
今までのやけに優しい態度は今思えば先の嫌みの法則に当てはめればまだ理解できなくもないのだが、こればかりは明らかな異常だった。
しかし、残念なことに、そして以前までと変わらずに、礼一少年に分かるのはやはりそこまでであった。
こうして、分かりやすい兆候として奇行があったところで、礼一少年はその背景を知らなかったのだし、調べようにも情報戦ではあちらが一枚上手なのだし――事実、それは誰にも分かりようがない類のものだった。
だから結局のところ、事態は進んだように見えて実際には何一つ進んでいない。
起きた事件は、ただ事態を別角度から説明しただけで終わり、そこにまつわる概観は何一つ進歩していないのだ。
まあその、その進歩しなかった理由のもう一つとして、礼一少年の怠慢を上げてもいいかもしれない。
事態が今まで通りなら、として、同じく今まで通りに、分からないものは分からないと早々に放棄してしまって、別の事柄にうつつを抜かしていたのだ。
つまり、ヨハナの体を拭くということに。
ここで誤解のないように彼女の病状について少しばかりの注釈を加えておきたい。たった一日経っただけであるが、こちらの方はそれなりに進歩したのだ。
事件後、礼一少年が何とか煎じて飲ませた薬が早速効いてきたのか、彼女の咳や寝汗といった症状は比較的収まってきた。
相変わらず体温計はないが、そこから推量するに熱も下がっただろう、と礼一少年は考えた。
とすれば当然彼女のことだから自分で風呂に入ろうとするに違いない、とも考えた。
しかし、それは現代建築の断熱性に守られてきたために湯冷めという概念を忘れた現代人の感覚というもので、ヨハナは約束(思えば約束と呼べるほどのことはない、事実礼一少年はその話は流れたものだと思っていた)をそのままにした。
自分で風呂に入るぐらいはできますけどそれで体が冷えてしまっては元の木阿弥です、というのが彼女の弁であった。
礼一少年はここでヨハナを押さえ込んででも風呂に入れたかったが、ヨハナ自身の体を盾に取られては抗弁しようもなかった。
何より、まだ病み上がりで髪も纏まっておらず、それがまた無防備に見えて保護欲をそそるような姿のヨハナに「手伝っていただけますか?」と言われれば、礼一少年でなかったとしても断れまい。
そんなこんなで、礼一少年はいかにも安そうなヤカンでお湯を沸かし、洗面器の中の冷水を埋めているのだった。
彼はその温度がヨハナの柔肌でも耐えられそうなほどになったことを確かめてから運び出した。
今までの孤児院生活の中で最も長く感じられる距離の先にヨハナの部屋のドアはあった。
「失礼します……ヨハナさん、準備できました」
礼一少年は、そう言いながらノックして、それからドアを開けた。廊下が廊下で千里かのように長かったなら、ドアはドアで鉄製かのように重かった。
その核シェルターめいた重さの扉の先のヨハナは窓の外を見ていたが、礼一少年に気づくと微笑んだ。
「すみません、わざわざお手を煩わせてしまって」
いいですよこれくらい、と礼一少年は答えてから、心の半分を恐れで、残り半分をどこから湧き上がってきたとも知れない期待で埋めた状態でヨハナに言葉を返した。
「……それで、取りあえずどうしたら?」
「あ、桶をそこに置いていただければそれで……」
「……はい?」
その返答は礼一少年にとって予想外のことだった。
「えっと、ですから、自分で出来る範囲は自分でやります……ので」
ヨハナがそう言った瞬間、礼一少年は自分のしでかしたミスに気がついた。
あくまで風呂に入らなかったのは湯冷めが心配だったからで――ヨハナの性格上、基本的に自分でやれることは自分でやるのである。
そして、風呂に入れると豪語するレベルに体力が回復している人間が、体をタオルで拭うぐらいのことができないはずがない。
多分、洗面器に水を入れるのだってやれただろうが、あまり重いものを持ち運ぶのが怖くて、それで手伝わせたのだろう。
礼一少年は自分があまりに愚かだったことに思わず笑いながら、ヨハナの言う通りにもってきた洗面器を机の上に置いた。それから、部屋を出て扉の向こうにピタリと立ち、そのままズルズルとへたり込んだ。
全く、何をやっているのか。礼一少年はへたり込んだそのままの姿勢で天を仰いだ。
そのままふと目を閉じると、礼一少年は何か逃れがたい渦の中に自分が放り込まれているかのような気持ちを感じていた。
色々とペースが乱れている。
着々と乱されている。
ヨハナのこと。ミヤシタのこと。銃。
事態は一繋がりになった何物かではないのかもしれない。あるいは全ては一つの何かしらのための大陰謀めいた布石なのかもしれない。
とにかく自分が冷静でいられなくなるような状況がドンドン進んでいき、かつその尻尾は見せても胴体そのものは見せない。
ただ何かが漠然と悪くなっていっている実感はひしひしと感じられるのに、具体的にそれがどう跳ね返ってくるかがずっと分からないままであった。
それが気持ち悪くて、だからそれに気を取られて、こうして大したことのないもので躓く。
それがまた焦燥感と苛立ちを生み、次の石を生活の上に置くのだろう。
礼一少年の意識はその暗澹たる回廊を行き、そこに横たわる一つの物体に気がついた。
そういえば、草原でのニッキーとの戦い以来、めっきりチャアタイの姿を見ていない。
礼一少年は不意にそんな風に思った。何故かは分からない。拳銃を突きつけてきたミヤシタから連想したのかもしれない。
とにかく、ただ自然に思考の中に浮かび上がってきたのだ。
そして、それは、この事態を理解する上で非常に重要なピースの一つであった――のだが、当然そんなことは礼一少年の知るところではない。
そのため、彼のその思いつきは、彼が背にしていたドアからのノックに脅かされてどこかへ飛び去っていってしまった。
「レイイチさん? そこにいますよね?」
礼一少年は素っ頓狂な声を挙げそうになったのを取り繕ってから、はい、と返事をした。
「どうかしたんですか? タオル変えましょうか? それとも、お湯を?」
扉の向こうのヨハナはその言葉に少し戸惑ったようだった。
「いえ、タオルもお湯もそのままでいいんです。ただ……」
「『ただ』……どうされたんです?」
「――背中をお願いしても、いいですか?」
世界は、今一度静止した。




