第六十五話 醜翼
ただし、今度は意味もなく静止したのではない。原理が違う。
前回は思考が事態に追いつけず、結果的に世界がそれに合わせて静止したのだが、今回は思考が事態を追い越して、相対的に世界が静止したように礼一少年には認識されているのだ。
思考が何故事態を追い越したのか? それは簡単、走馬灯ということである。
それもそうだ、憧れの人に背中を拭ってほしいと言われれば、ただそうであるというだけでも誰もが興奮して、それからその幸運の背景の理解に努めるだろう。
大抵の場合、それは日頃の行いやら神の恩寵やらに帰結されるのだが、礼一少年のこの場合は違った。ヨハナ本人の性格に責任を帰したのである。
自分で出来ることは、自分でやる。それが彼女のポリシーである。
それは裏を返せば、自分で出来ないことは誰かに頼むこともある、ということでもある(もちろん、それでも彼女は無理をすることが多い)。
背中というのは、自分では決して満足に見ることは出来ないのだから、「他人の手を介さない限り」完全に拭ききることは難しい――あるいは「出来ない」。
礼一少年はそれに気づいた途端に笑ってしまった。それから自立と自律を旨とするヨハナが随分と自分を頼ってくることに満足さと少しの不思議さを覚えた。
そのとき丁度、ヨハナが不審そうに礼一少年の名前を呼んだので、彼は即座に現実の時間軸に呼び戻され、それから部屋に入った。
礼一少年がドアを開けて、まずその目についたのは服がややはだけたヨハナの姿であった。その手は木桶の上でタオルを絞っているようだが、どうも上手くいっていないらしい。たおやかでスラッとした手だが病み上がりも相まって非力なのだ。
礼一少年はその手のものを手にとって彼女の代わりに絞った。それから、礼一少年はそのままそれを取って広げた。
「それでは――少し下を向いていてもらえますか?」
そう言いながら、ヨハナはスッと向こう側へ向き、そこからはスルスルと衣擦れの音がし始めた。礼一少年はその音から逃れたいのもあって、ヨハナに言われた通り手元のタオルをじっと見つめていた。
――今、目の前で天使のベールが剥がされているのだ。信じられるだろうか?
礼一少年の手は自然と震えていた。ヨハナの美しさを前にすればどんなに性欲を失った隠者だろうが、男であるならば誰しもがそうなるものだが、今回はそれとしても異常とも言えるものであった。
それはそうだ。ただ服の上、しかも聖職者特有の分厚いそれの上から見るのとは訳が違う。目の前に絹のような肌が晒されるのだ。
しかもその背! ――肌というものを見るには、そこは最も面積が広く余計なものがない。
かといって何もない平板では当然ないから、様々な骨の凹凸が、そしてそれの作り出す曲線が、そこに均整と調和を与えるのだ。
礼一少年にはそれを想像するだけでも、美しさのあまり目の潰れそうな感覚すらした。目を閉じずただタオルだけをじっと眺めていたのはそれだからかもしれない。
あるいはタオルを見ることで、自分がこれからすることは全て看病の一環であるというように自己正当化をしようとしているからかもしれない。もしくはそのどちらでもよい。
「レイイチさん……目線を上げてもいいですよ」
ヨハナがそう言ったのは、衣擦れの音がしなくなって、最後にパサリ、という何か軽いものが布団の上に落ちるような音がした後であった。礼一少年は、恐れ多い感情を抱きながら、ゆっくりと、その視線を上げた。
「――――!」
礼一少年は絶句した。手からタオルをポトリと取り落とした。息を吸うべきとも吐くべきともつかず、ただ固まった。
その音を聞いて、ヨハナは不思議そうに振り返った。
「レイイチさん? ……どうしたんですか? 何か、何か変なことがあったのですか?」
変なこと?
そう、確かにこれは変なことだろう。
それも、大変なことだ。
それは、余りにおどろおどろしかった。
「ヨ、ヨハナさん、それは……」
礼一少年は硬直した体でもわずかに口が動いたのをいいことにそう言った。
「その、背中の傷は、傷痕は、何ですか」
――天使には必ず羽があるものだというのはほぼ世界共通の概念であろうし、三千世界共通の概念でもあろうと思う。
であれば、ヨハナ・フェーゲラインという天使じみた人間が、もしも人間でなく天使だったとすれば、羽はないのはおかしいだろう。
だからだろうか、傷跡はまるで翼がそこに昔はあったかのようにヨハナの背中に鎮座していた。
だとしても、引きちぎられゆく翼の断末魔のような形をしているのは少し皮肉が過ぎた。礼一少年が畏怖したのはそのためであった。
その平面上にある異形の翼は、赤く醜く歪んでいた。その形が何故に形成されたのかは礼一少年に分かるはずもなかったが、しかし傷そのものが何故に形成されたのかは何となく分かった。
「火傷――火傷の、痕みたいな」
何らかの熱い物体が背中を吹き上げたのだろう。炎か。きっと炎だろう。いや何だっていいのだ。ただ炎だけでなく、そこに小さな傷がいくつも見えたことも、礼一少年にとってはどうでもよかった。
それは一つの大きな歪みだった。礼一少年はその前に立ち竦んで何も出来なくなっていた。
「『何のことです』?」
しかし、何より恐ろしかったのは。大きな歪みとして思われたのは。
「『私には、何もないように思えますけど』」
ヨハナのその言葉だろうか?
――Noだ。
ヨハナのその認識だろうか?
――Noだ。
「…………ッ!」
その、瞳。ダイヤのようとも、大空を切り取って張り付けたようとも言えるそれの、何と虚ろなことだろう?
何と、残酷なことだろう?
何と、失われていることだろう?
目の前にあるその美の象徴は、よくあるような彫像などではなかったのだ。あのような(その生命的な話はともかくとしても)しっかりとした存在として実のある美ではなかった。
例えるなら、布が床に落ちる一瞬、風に弄ばれて作られる儚い形が、偶然そのような形をとっているに過ぎない――そのようなものだったのだ。
今までそれが露呈していなかったのは、単に運が良かったからだろう。だがそれはつまり、ヨハナがそうであると認識していなかったということの裏返しでもある。
礼一少年は震えた。
残酷な運命の牙は、ついに霧の中を通り抜けて、彼女の背中から飛び出し、彼の首筋へと噛みついて離れなかった。




