ぱらぱらドリーム016
ぎち。
ぎちぎちぎち。
今まで聞いたどんな音より近く、その軋みは鳴った。縒木の身体がびくりと跳ねる。その音のなる方へ、目を剥いて首筋を凝視する。
あの痕はもう居なかった。
「っ……ぁ」
月明かりの下で、それが輪郭を持ち始める。ぼんやりと滲む黒。煙みたいに曖昧で。それでも確かに縄の形をしている。それが、縒木の首に巻きついて軋んでいた。
ぎり。
まるで彼女の呼吸に合わせ、ソレは締め上がる。まるで息継ぎすら許さないように。
「縒木!」
嫌な汗が背中を伝った。馬鹿だってわかる。こんなに強く締めてしまえば、きっと。
縒木は掲示板へ片手をついたまま、もう片方の手で必死に喉元を掻いていた。
爪が皮膚を裂く。鉄臭い赤い線が増えていく。
手を伸ばした。でも、ソレは触れられなかった。その黒くぼやけた輪郭から、指先が沈む。嫌に冷たい冷たい感覚だけ残して、縄は煙みたいに姿を崩す。そこにあるはずなのに、掴めなかった。
「かっ……ぁ……」
空気を吸えていない。喉だけがひくついて、呼吸が途中で潰れている。顔色が、みるみる白くなっていった。指先から力が抜けていく。このまま締まれば、本当に。
本当に、死ぬ。
ぎち。
「落ち着け、深呼吸しろ!」
肩を掴む。でも、縒木は首を振った。違う。そう言いたいみたいに。
「こ……んな、の……っ」
ぎり。
「きら、い……っ」
また、締まる。その縄は喉へ更に食い込む。
このまま何も出来ないのか。嫌だ。そんなの、絶対に。受け入れられない。ダメだ。目の前で誰かが壊れていくのを、また見てるだけなんて。
無い頭を回せ。目が熱い頭が熱い。
何か、何かきっと。
「くそ……!」
縄の先へ視線を移す。
縒木は、夢で誰かに首を絞められた。と言っていた。だから、きっと誰かが引いている。
元凶が、その縄の先にあると思った。
……。
廊下には誰もいない。人影のひとつもなかった。
薄白く月明かりだけが床へ落ちている。黒い縄は、どこにも繋がっていないように見えた。
——いや。違う。
揺れる影。縒木の足元。月明かりに伸びた彼女自身の影へ、その縄は、じわりと溶け込んでこんで境は曖昧みたいに。
またじっとりとした嫌な汗。
全身を鳥肌が這っていくのが分かった。
思い返す。夢を見ている時。モールでの屋上。そして今。決まって。縒木が、“ちゃんとしていた自分”を嫌ったその時、この縄は強く彼女を傷付けた。
「……縒木」
喉が乾く。呼吸が浅くなる。言いたくなかった。でもどうしようもない確信があった。
「なぁ、縒木」
縒木が苦しそうに顔を上げる。
「お前、だったんだな」
空気が止まった気がした。
ぎち。
縄が軋む。縒木の嗚咽が漏れる。
「ちが……っ」
否定。さらに縄が締まる。
「っぁ、ぁ……!」
呼吸が潰れる。まるで、“否定すること”そのものが、縄を締めているみたいだった。
「わかった……もう、喋るな」
咄嗟に肩を抱く。でも縒木は首を振る。苦しそうに、それでも何かを拒絶するみたいに。
「こんなの、わたしじゃ……」
ぎり。喉が絞まる。
「ちが、っ……!」
月明かりの下で、黒縄がゆっくり軋む。まるで、“その言葉を待っていた”みたいに。
「もう、やめてくれ」
強く彼女を抱きしめる。頬が濡れてる。肩が震えている。黒い縄はまるで生き物みたいに脈打っていた。
「でも、私……」
「わかってる」
声を荒らげて、彼女の言葉を遮る。
「自分が嫌いなんだろ。どうしても、受け止められないんだよな。……ちゃんと、わかってる」
それでも今はもう、“違う”と言わせちゃいけない。これ以上締まればきっと、取り返しがつかなくなる。
「もう、自分を殺そうとするな」
その言葉で、彼女は決壊した。
縒木の呼吸が崩れる。黒縄が、ぎち、と軋んだ。
「だって、わたし……っ」
涙でぐしゃぐしゃのまま、縒木は喉を押さえる。
「ちゃんとしてなかったら、何も無い……」
その言葉だけが、夜の校舎へ落ちた。
返事が出来なかった。
縒木 日陰は、“ちゃんとしてる自分”でいることでしか、自分を許せなかった。だから、壊れたかった。全部、投げ出してしまいたかった。
なのに。
本当は、“ちゃんとしてる自分”が壊れていくことを怖がっていた。
だから、金髪にしても。ピアスを開けても。夜中に学校へ忍び込んでも。クラスメイトに気づかれないほど変わってしまっても。
こいつはまだ、順位表の前で立ち止まってしまう。
「……俺も、怖かったよ」
掠れた声が出た。
「お前が変わっていくの」
金髪にして。笑い方まで変わって。どうでもいいみたいな顔をして。どんどん、知らないやつになっていくみたいで。
もう戻ってこないのかと思った。
息を吸う。
「……でも、違うだろ」
縒木の肩が、小さく震える。
「テスト返却の日だけ、シャーペン噛む癖あったのも」
「二人組作れって言われるたび、困った顔してこっち見てたのも」
「眠い時だけ、急に口悪くなるのも」
「鞄ん中ぐちゃぐちゃなくせに、ノートだけ異様に綺麗なのも」
息が詰まる。
「テストの結果良かった時。机に伏したフリして、隠れてニヤニヤしてたのも。」
「褒められると、ちょっとだけ目逸らすのも」
「テスト終わった次の日だけ、気ぃ抜けて遅刻ギリギリなのも」
「ピアス開ける直前、めちゃくちゃビビってたのも」
言いながら、僕は思い出していた。教室の横顔。面倒そうな返事。不器用な愛想笑い。彼女の隣で、ずっと見てきた。
「そういうの全部含めて、お前だろ」
月明かりの下で、縒木の瞳が揺れる。
「頑張って、優等生してたお前も」
「全部投げ出そうとしてるお前も」
ぎち。
黒縄が軋む。でも今度の音は、今までと少し違った。
締め上げる音じゃない。無理やり捩じれていたものが、少しだけ緩むみたいな音だった。
縒木の呼吸が、僅かに通る。
「っ……ぁ……」
喉を押さえたまま、縒木は目を見開く。
まるで。
自分の身体が、一番その変化へ驚いているみたいに。
「……じゃ、あ……」
掠れた声。
縄が、ぎち、と揺れる。
「わた、し……」
言葉を吐く度に、少しだけ緩む。
「ちゃんとして、なくても……」
呼吸が震える。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、
縒木は僕を見る。
「居ていいのかな……」
「いいに、決まってる」
即答する。縒木が、小さく目を見開く。
「優等生だけが、お前じゃない。
お前は、空っぽなんかじゃない。」
「俺はさ、楽しかったよ。」
「優等生じゃないお前と、今日1日ちょっと悪い事を一緒にやって」
「気の良い奴で、冗談が通じるやつで、一緒に笑えるやつで、図太くてビビリで、普通の女の子で、ちゃんと、楽しかった。」
「縒木はつまらなかったか?」
「ちがっ……」
「そう。お前もちゃんと楽しかったんだよ。」
「優等生じゃないお前で居た時間も、お前はちゃんと楽しめてたんだよ。だから、ちゃんとしてないお前だって、空っぽなんかじゃない」
息を吸う。
「どうしても自分を好きになれないなら、お前が納得するまで話を聞いてやる。何日だって愚痴に付き合ってやる。また何回だって夜遊びに付き合ってやる」
「お前が、ちゃんとしてない自分を受け入れれるようになるまで、共犯になってやる。ちゃんとしてないお前の居場所になってやる」
「だから、片方だけ殺そうなんてするな」
喉が熱かった。
「どっちの縒木 日陰も、僕の大切な友達なんだから」
縒木の呼吸が、夜の校舎へ零れる。
ちゃんと、生きている音だった。
黒縄の輪郭が、ゆっくり薄れていく。煙が散るみたいに。月明かりへ溶けるみたいに。縒木自身の影へ、静かに還っていくみたいに。
消えた、とは少し違った。
最初から、あれは縒木の中にあったものだから。
「っ……ぅ……」
縒木の肩が震える。喉を押さえたまま、何度も浅く息を吸う。
吸って。
吐いて。
そのたびに、少しずつ呼吸を思い出していく。
泣きそうに歪んだ顔で。それでももう、さっきまでみたいに。それは“自分を嫌がる顔”じゃなかった。
ぎち。
最後の軋みは、どこか力の抜けた音だった。縒木の膝が崩れる。
慌てて支えると、彼女は僕の服を強く掴んだ。
「っ……ぅ、ぁ……」
限界だったんだと思う。張り詰めていたものが切れたみたいに。縒木は、そのまま声を上げて泣き始めた。
子供みたいに。息も出来なくなるくらい、ぐしゃぐしゃに。
それでも、縒木はちゃんと息を吸えていた。
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