73.父親になるということ
少し日が空いてしまいましたが、また再開いたします。
1306年8月終旬 柳泉
「希京様!」
「柳泉!?」
乗っていた馬を庭にほったらかしにしたまま、俺は屋敷内へと飛び込んだ。希京様は自身の部屋にいて、阿矢が側に付き添っていた。
突然俺が飛び込んできたもんだから、誰も彼もが驚いている。
「旦那様、奥方様のお体に障りますのであまり驚かせるようなことは・・・」
「わ、悪い。先ほど主様より知らされたのだ。希京様のお腹に子がいるということを」
阿矢はまた驚いたような表情をした。希京様は少し申し訳なさそうな顔をしている。どういうことなのだろうか。
「旦那様にお知らせにならなかったのですか?」
「だって、初陣だって言うからあまり心配をかけたくなかったのです。ですが、まさか主様より知らされるとはこれは想定外でした」
阿矢の呆れた顔や、俺の慌てて帰ってきたことによる荒い息などお構いなしに希京様は笑われていた。
とりあえずその場に腰を下ろすと、俺が帰ってきたのを見ていた使用人の1人が茶を入れてくれた。
「すまない」
「いえいえ~」
急須を阿矢の隣に置いて部屋から出て行く。見送ってから俺は一気にその茶を飲み干した。慌てて帰ってきたんだ。当然喉は渇くし汗も出ている。
でもそんなことよりも確認したいことがある。目の前に。
「私も席を外しますね」
「気を遣わせてしまってごめんなさいね」
阿矢は俺の湯飲みに茶を入れてから部屋から出て行った。
部屋には俺と希京様の2人っきりになった。
「まずは初陣での勝利おめでとう御座います」
「ありがとう。王都で希京様が待ってくれていると思うと死ぬ気で頑張れました」
「嘘でもそう言ってくれて嬉しいです」
「嘘などではっ」
否定しようとしたが希京様はまたクスクスと笑われる。全てお見通しとでも言いたいみたいに。
「兄から文が届きました。白轟様の元で一からやり直し、慣れぬ仕事にも頑張っているようです。そして兄も先日初陣を果たしました。ただ生きることで精一杯だったと」
張義涼殿は義京の罪で宰相殿の補佐から外されている。今は1番過酷だと言われている白轟様の一兵卒として頑張っている。また宰相殿のお力になりたいのだそうだ。
1番過酷だと言われている所以、それは全ての戦場に白轟様が向かう義務があるからだ。例え所領の反対側だとしても大将軍である白轟様は何かしらの形で戦に参加しなければならない。兵農分離によって随分反感も落ち着いたが、この政策施行前は白轟様の領地の農民らは相当反感を持っていた。
今は職業兵士らがあるからまだマシにはなっている。あくまでもマシの話だ。
「指揮官であると言っても、本当に戦場で私の顔が浮かんだのですか?」
「・・・参りました。勝ったときにはまた希京様に会えると喜ばしくは思いましたが、最中は精一杯でした」
「でしょう?」
俺が降参の仕草を手ですると嬉しそうにされた。やはり自宅はいい。落ち着いて妻と話せることがこんなに幸せだと感じるのは、つい数ヶ月前まで命のやり取りをしていたからだろう。
「それで子の方は如何ですか?」
「先生は順調だと言ってくださいました。冬椿が腕の良い医者を紹介してくれたのです」
「それは・・・、冬椿には礼を言っておかなければいけませんね」
「冬椿だけではありませんよ。他の領監部の若い方たちも日替わりで私の様子を見に来てくださいました。良い部下をお持ちになったのですね」
そうか、俺の留守をしっかりと守ってくれたのだな。涙が出そうになって視界を下に向けると、ここにきてようやく希京様の膝にかかっているブランケットのような物に気がついた。
「これは?」
「紅林様の奥方様がお使いしていた物のようです。身体を冷やすのは良くないと、いただきました」
「あ、あぁ、そうなのですね」
なんか色々してもらって申し訳なくなってくる。しかし紅林殿までもが・・・。
「全員に礼を言わなくてはいけませんね。希京様の分も」
礼を言っておきます。そう言いかけたのだが、希京様は俺の口元に指を指して首を振られた。
「何でしょうか?」
「いつまで私のことを希京様と呼ばれるのですか?張家は最早なんの力も持っておりませんよ」
「いや、それは・・・」
「それとも私が年上だからですか?阿矢と話していたのですが、私達の間にはもうすぐ子が生まれます。私が旦那様のことを柳泉と呼ぶのも、旦那様が私のことを希京様と呼ぶのも普通はおかしな話です。あなた様はこの家の大黒柱なのですから」
別に意識していたわけではない。ただタイミングの話だ。最初に希京様と呼んだから、今更呼び捨てとか他の呼び方がしにくいだけ。
「私は今後私達2人の時でも旦那様と呼びます。旦那様は如何なされますか?」
重たい身体を動かしてまで俺に詰め寄ってくる。その目には、この話の本気さがうかがえた。
「わ、わかりました。き、き、希京・・・。これでいいですか?」
「はい。今はそれで良いです。もう少し普通に言えれば尚よしですが」
俺にグイッと近づけた身体を負担にならないように元の場所まで押し戻した。
そういえば、例の話をしていなかったな。また家を空けるなどかなり言いにくい。時期も時期だ。しかし主命でもある。
「実は帝都に向かうことになりました」
「帝都!?」
腹に子がいる希京様・・・希京の側にはいたい。しかし・・・。駄目だ、阿矢にしっかりと頼んでおこう。
驚く希京になんて説明しようか、俺は精一杯に頭を働かせたのだった。




