『早瀬櫻』
早瀬との出会いです。
部屋の中でスマホのアラームが喧しく鳴る。
僕はアラームを止め、ベットの上で上半身だけ起こしてお手本のような伸びをした。時計を見ると朝6時、ベッドから立ち上がり窓のカーテンを開けると東の空が茜色に染まり徐々に太陽が登ってきているようだった。
外はまだ少し暗く、月はまだ残っているが雲ひとつない空が広がっている。
——「今日からだな」
そう今日から僕の高校生活が始まる。僕は中学二年の時に知り合った萩原さんと交流する(失恋もした)ことで、より勉学へ励み中学三年になると1つの夢を掲げた。
そして、その夢を実現するためには東京のとある大学に行かなければならないことを知り、卒業後この高校生活の3年間は——恋などせず勉学一筋で行くことを決意した。
その初日となる僕の充実した勉学への道のりに気合いを入れるため、両手で自分の頬を叩いた。
「新しい制服はっと……」
クローゼットを開け、真新しい制服を取り出し寝間着を脱いで着替える。ネクタイの締め方は何度か春休みの間に練習したおかげで問題なく結べた。
階段を降りて、台所に行くと母親が忙しく朝ごはんの支度をしていた。
「あら、皓太郎、おはよう。今日は早いのね。ご飯の準備が出来たら起こしに行こうと思ったけど取り越し苦労だったね。まあいいわ、準備出来たから朝ごはんにしましょ。」
ダイニングテーブルの上に、ご飯、味噌汁、ベーコンの乗った目玉焼きが並べられる。
「母さん、今日は初日だし早めに家を出るよ、ちょうど平和公園の桜も満開だろうし、少し春らしさを堪能してから学校に行くよ。」
「朝の早い時間は人と車も少ないから大丈夫だと思うけど気をつけなさい」
僕が、箸で目玉焼きを突っつき、口に運びながら喋ると母親は台所に向かいながら、自転車通学に変わったことを心配してくれていた。
母親らしい親心を感じさせる優しい声色だった。
僕は朝ごはんを済ませると、母親の片付けを手伝ってから、まだ教科書が入っていないカバンを持って玄関に向かう。
下足箱から靴を取り出し履こうとするが、真新しいせいか踵が固く、つま先をトントンと片方ずつ叩きながら履いた。
そして、少し大きめの声で「行ってきます」と言って玄関の扉を勢いよく開けて出ていくと、台所から小さく「行ってらっしゃい」と母親の声が聞こえ、玄関の扉は小さな音を立てて閉まった。
自転車に跨り僕は学校へ向かう。今年から通う津留高校までは約3キロ、自転車で15分程の大分川沿いにある。
国道を通って行くすがら、桜を見るため平和公園の駐輪場へ、僕は自転車を滑り込ませた。
既に1台停まっていたので、その隣に並べて停めておいた。
平和公園は裏川沿いに長い遊歩道と800本もの桜が植えられている県内でもトップクラスを誇る花見の名所だ。
休日はかなりの花見客でごった返すが、平日の今日はまだ7時前ということもあり散歩する老夫婦やランニングをしている中年の人ぐらいしかいなかった。
僕は土手を上がり、桜並木の遊歩道に立った。そして、桜を見上げると頭上を埋め尽くすほどのピンクの天蓋が広がっている。
思わずその圧倒的綺麗さに朝の寒気とは異なる身震いを僕は感じた。
「綺麗だな」
一言呟くと、不意に後ろから。
「そうね」と声が聞こえた。
誰もいないと思っていたので肩を竦めて振り返ると一人の女性が遊歩道のベンチに座っていた。
「そんなに驚かなくても、ふふ」
驚いている僕の顔を見つめる彼女は、手を口に当て、笑いながら、僕に視線を送ってきた。
——その瞬間、彼女以外が僕の視界から消えたように感じた。僕は予期せぬ現象に、思わず彼女の瞳を凝視する。
「な、なに?そんなに見られると恥ずかしいのだけど……」
その女性は目線を逸らし、右手で髪の毛を弄りながら頬を染めていた。同時に彼女の濃紺のロングヘアーが春風で靡いて、そんな彼女の姿を隠そうとしているようだった。
「すみません、つい人がいるとは思っていなかったので、ちょっと相当驚いちゃいました。」
僕はその幻想的な光景から我に返り、慌てながら伝わりづらい言葉を口にする。
「別に謝らなくてもいいわ。」
そんな彼女は頭を横に振り、笑顔を浮かべる。
「私も……本当に来るとは思っていなくて驚いちゃったから……」
「ん?本当に?」
小声で聞き取りづらかったが、何のことかわからず僕が訊き返した。
「い、いや本当に桜が満開になってると思ってなかってことよ!」
彼女は慌てて顔の前で両手を振り、目を泳がしていた。
明らかに焦っている様子ではあったが、僕とは初対面なわけだから、わざわざ詮索するのは無粋だと思った。
もしかしたら別の人と勘違いしているだけかもしれないと、敢えて僕は気にしなかった。
それにしてもこんなに朝早くから人と会話するとは思いもしなかったな。
ふと僕は彼女の服装を見て、あることに気づく。僕が通う高校と同じ女生徒の制服だ。容貌しか見ていなかった僕は、その大人びた印象から大学生かと思い込んでいた。
「高校生ですか?しかもその制服って……」
「そう、私は津留高校の一年生で今年から通うの。そういえばあなたの制服も津留の男子生徒のものね」
ベンチに座ったままの彼女は、目線の高い僕からは上目遣いに見えてしまうため、思わず僕は顔が熱くなっていくの感じた。
彼女の瞳は二重瞼なのに切れ長で瑠璃色をしていた。眉毛も瞳に添うような形をしていて、僕が彼女を綺麗と感じたのはそれらに艶っぽさがあるからだと納得した。
「ということは同い年?僕も一年で今年からその津留に通うんです。今日が初日だし遅刻しないようにと思って早めに家を出て、ここに寄ったんですよ。」
同い年なら敬語を使う必要もないのだが僕の癖で初対面ではすぐに敬語になってしまう。
「同い年なのね、よろしく。私は早瀬櫻、桜は難しい櫻の方。」
早瀬さんはベンチから立ち上がり笑顔で頭を下げた。
「友近皓太郎です!」
僕も早瀬さんに倣い頭を下げた。
少しの沈黙が続き「.........」早瀬さんが何かを呟いた気がしたが、春風の吹く音で僕には微塵も聞こえなかった。
「じゃ友近さん、私は寄るところがあるから先に行くわ。」
早瀬さんは自分のカバンを持ち、手を軽く振って転ばないようゆっくりと土手を降りて行く。そして自転車で去っていく彼女の後ろ姿を小さくなるまで僕は眺めていた。
「隣の自転車は早瀬さんのだったんだな、僕ももうすぐしたら学校に行こうかな」
誰もいなくなった場所で僕はひとりごつ、もう一度桜を見上げるとピンクの天蓋から少し太陽が登って来たのか、合間から光が差し込みキラキラと輝いていた。
しばらく満開の桜を眺めた僕は平和公園を後にして学校へ向かった。自転車を漕ぎながら僕は早瀬さんとの出会いを思い返す。
早瀬さんはなぜ朝早くあそこにいたのだろうか。確かに満開の桜を見に来る人はいるだろうが、あの時間に行く人は余りいない。しかも同い年で同じ高校のさらに女子生徒だ。あんなに綺麗な人はそういないしな、何かの運命なのかもしれない。
そんなことを考えていると中学時代の苦い思い出が頭の中を過る。萩原さんのあの冷徹な声が聞こえ始めると僕は意味もなく頭を横に振り考えるのをやめた。
——高校3年間は勉学一筋と決めたんだ。早瀬さんとは偶然会っただけ、僕には関係ない。ゆっくり走るとまた余計なことを考えてしまいそうだったので僕は自転車のサドルから臀を上げ思い切りペダルを踏み込んで国道沿いの自転車通路を疾走した。




