第97話
薪ストーブの前に、俺は大きな紙を広げていた。
雪に閉ざされた午後は、時間だけはたっぷりある。外は物音ひとつしない銀世界で、家の中は炎のぬくもりに満ちている。膝には鉛筆、傍らには湯気の立つ茶。役者は、これで揃った。
「さて。設計といくか」
鞍馬さんに焚きつけられて以来、俺の頭の中は、すっかり露天風呂に占領されていた。
山の湧き水を、岩場のどこから、どう引くか。湯船はどんな形がいい。目隠しはどうする。雪見のためには、どっちを開けておくか——考え出すと、課題が次から次へと湧いてくる。
まったく、久しぶりの感覚だった。
現役の頃は、要件定義だのなんだのと、毎日うんざりするほど図面を睨んでいたものだ。それが今は、同じ「設計」でも、まるで気分が違う。誰に命じられたわけでもない。納期もない。ただ、自分が入りたい風呂を、自分のために引くだけだ。
「こうなると、勾配の計算まで楽しいんだから、現金なもんだよな」
仕事のためじゃない設計図というのは、こんなにも心が躍るものらしい。線を一本引くたびに、まだ見ぬ湯船が、頭の中で少しずつ形になっていく。その手応えが、たまらなく気持ちいい。
鉛筆を舐めて、俺は湯船になるあたりに、ぐるりと線を引いた。
水盆の縁からは、スイがひょいと身を乗り出して、俺の手元を覗きこんでいる。
「あるじ。そこは、もっと湯を深くなさいまし。肩まで、とぷんと」
「お、いいこと言うな。採用」
設計が一枚進むごとに、こいつの機嫌は目に見えて上向いていく。俺は言われたとおり、湯船の線を、ひとまわり大きく描き直した。
◇◇◇
同じ雪空を、遠い辺境のネル村も戴いていた。
痩せた土地にも、冬は容赦なく訪れる。けれど今年のネル村は、去年までとは、まるで様子が違っていた。
軒には干した野菜が連なり、蔵には腐ることを知らぬ糧が満ちている。子どもらは雪を蹴立てて駆けまわり、老人は暖かな家の中で、静かに冬をやり過ごしていた。飢えて震えるだけだった冬が、こんなにも穏やかになるとは。
行商のガロは、雪を踏みしめて、村外れの辻へと向かっていた。
辻には、古い石の祠がぽつんと建っている。苔むして、屋根は傾き、雪をかぶって、いかにもみすぼらしい。だが今日、その粗末な祠の前には、村じゅうの者が集まっていた。
「この祠を、建て直そう」
そう言い出したのは、村長だった。
誰からともなく、うなずきが広がっていく。これほどの恵みを授けてくださる祠が、こんなにみすぼらしいままでは、あまりに申し訳ない。石を積み、木を組み、村総出で、立派な社に建て替えよう——その話は、瞬く間に村じゅうの願いになった。
思えば、と村人たちは口々に語り合う。
飢えを救ったのも、魔獣を退けたのも、病を癒したのも、そしてこの厳しい冬を越させてくれたのも、すべては、この祠から現れる恵みだった。祠の主さまは今や、村の暮らしそのものの土台であり、心の拠りどころになっている。
ガロは供物台に、金貨と上等な毛皮を捧げ、深く頭を垂れた。
「祠の主さま。あなたさまのおかげで、村はこの冬を、笑って越せます」
その声は、もう祈りそのものだった。
どこの、どんなお方かも知らない。姿を見たことも、声を聞いたこともない。それでも村の者は皆、心のいちばん奥に、この見えぬ主さまを据えていた。
雪の中、村人たちは石を運び、木を伐り出しはじめる。かじかむ手をこすり合わせ、白い息を吐きながら、それでも誰の顔も、晴れ晴れとしていた。やがてここに、立派な社が建つ。恵みへの感謝を込めた、村の誇りが。
素朴な感謝は、いつしか祈りに育っていた。恵みは、もう暮らしの土台にとどまらない。村の心のまんなかに、静かに、信仰として根を張っていたのだ。
◇◇◇
その、はるか彼方で社に祀られようとしている当の主さまは。
山ひとつ向こうの古民家で、薪ストーブの炎に頬を照らされながら、鼻歌まじりに鉛筆を走らせていた。
「春が待ち遠しいなあ。雪が解けたら、いよいよ着工だ」
湧き水を引いて、雪を眺めながら浸かる、極上の露天風呂。その完成予想図で頭をいっぱいにした元会社員は、遠い異世界で自分の恵みが社になり、信仰になりつつあることなど、知る由もない。
ストーブの薪が、ぱちりと爆ぜた。窓の外では、雪がしんしんと降り続いている。
俺は湯気の立つ茶をすすって、設計図にまた一本、楽しい線を書き足した。




