第96話
鞍馬さんの一言が、まだ耳の奥で燻っている。
都の湯屋も裸足で逃げ出す、極上の露天風呂ができる——あの尊大な石屋がそこまで言い切るなら、たぶん、本当なのだろう。俺は薪ストーブの前に胡座をかいて、さっきから同じノートを、開いては閉じ、閉じては開いていた。
白状しよう。頭の中は、もう完全に露天風呂で埋まっている。
窓の外はしんしんと雪。だが俺の脳内は、湯気の立つ春の露天風呂で、すっかり温泉気分だ。
まず、どの岩場に据えるか。裏手の、湧き水が滲み出しているあの平たい岩の一帯がいい。見晴らしがよくて、雪をかぶった稜線が、湯船からまっすぐ見渡せる。
湯船の形は、四角ではつまらない。岩の姿を活かして、少し歪んだ、抱かれるような曲線にしたい。ゆったり足を伸ばせる深さで、湯が肩まで来るように。
湧き水をどう引くか——ここで、久しく眠っていた血が騒いだ。要は上流から下流への一方通行。勾配さえきちんと取れれば、重力任せの自然流下で、ポンプもいらない。
入れた湯は、当然どこかへ流してやらねばならない。取水、貯湯、排水。頭の中で、水の道が一本の線になって繋がっていく。ノートの隅に矢印を書き足すたび、久しぶりに歯車がかみ合う、あの快感が戻ってきた。
「ふふ……これはもう、水の要件定義だな」
誰もいない部屋で、俺はひとりにやついた。仕事で散々引いた設計図が、まさか自分の風呂で役に立つとは思わなかった。
目隠しも、ただ囲えばいいわけじゃない。稜線の見える方角だけは、すぱっと開けておきたい。雪を眺めながら湯に浸かる、あの一点だけは、絶対に譲れない。囲うところと、抜くところ。そのさじ加減が、たぶん、この風呂のいちばんの勘どころだ。
湯の沸かし方は、愛用の五右衛門風呂の要領で、下から薪で焚く方式が確実だ。目隠しは、竹を並べた簀の子塀か。この辺りはモクに相談すれば、いい知恵が出るだろう。
◇◇◇
気づけば、水盆の縁で、スイがさっきからそわそわと波打っていた。
「あるじ。その湯船、もっと深くしてくださいまし。肩まで、とっぷりと」
半透明のスライムが、めずらしく前のめりだ。湯のこととなると、こいつは俺よりよほど本気になる。水の玄人の血が、騒ぐのだろう。
「湯口はこちら、上がり湯はあちら。ぬるいところと、熱いところを分けるのですわ。それから——あの青いつぶつぶも、忘れずに」
しれっと、自分の好物の入浴剤まで設計に混ぜてくる。抜け目のないやつだ。
「縁の石は、なめらかなものを選んでくださいまし。頭を預けても痛くない、優しい岩を。湯があふれる音が、ちゃぷちゃぷと澄んで聞こえるように……ああ、想像しただけで、うっとりしますわ」
半分は自分が浸かる気でいるな、こいつ。まあ、この山の水のことなら、俺よりよほど詳しい水の玄人だ。ここは素直に、注文を全部聞いておくに限る。
だが、水を知り尽くしたこいつの注文は、いちいち理にかなっている。俺は言われるまま、ノートに湯口の位置を書き足した。
ストーブのそばでは、エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせている。
「沸かすのはオレに任せろって! あっつあつにしてやるぜ!」
「熱すぎるのは困るんだよ。湯加減ってのがあるだろ」
膝の上では、コロがまんまるのまま、とろりと目を細めていた。
「つちのこと、こまったら、ぼくがねー……」
言いかけて、そのまま寝息を立て始める。相変わらずのマイペースだ。
◇◇◇
注文を書き取りながら、俺はふと、ペンを止めた。
……ん。待てよ。
石は、鞍馬さんだ。あの目利きと腕がなければ、岩ひとつ据えられない。木組みの目隠しや脱衣所は、モク。あいつの継ぎ手なら、間違いがない。
水の浄化と湯加減は、スイ。火を絶やさず沸かすのは、エン。土台を固めて崩れないようにするのは、土いじりの得意なコロ。
そして、全体の設計と段取りは——俺。
なぜだろう、この風呂は自分ひとりで、うんうん唸って作るものだと、勝手に思い込んでいた。だが、違う。みんなの得意を、一枚の絵の上で組み合わせればいいのだ。
石も、木も、水も、火も、土も。それぞれの専門家が、もう、この山に揃っている。
「……こんな座組み、前の会社の花形プロジェクトでも、組めやしなかったぞ」
一流の職人と、腕利きの技術者ばかり。これ以上ない豪華な布陣だ。まさか山奥に引きこもって、こんなドリームチームを率いる日が来るとは思わなかった。
俺は、そっとペンを置いた。
俺一人でやるんじゃない。みんなの力を借りれば——きっと、俺ひとりが唸って作るより、ずっといいものができる。
窓の外の雪を眺めながら、俺の口元は、いつのまにかゆるんでいた。春が、待ち遠しくてたまらなかった。




