第95話
鞍馬さんが帰っていったあとも、あの一言だけが、妙に耳の奥に残っていた。
——露天風呂を作らんのか、ここに。
石屋の鞍馬さんが、腕を組んで、さも当然のように言い放った台詞だ。この山の湧き水と岩場なら、都の湯屋も裸足で逃げ出す、極上の露天風呂ができる、と。大きく出たものだと笑ったのに、その絵だけが、なぜか頭から離れてくれない。
◇◇◇
その晩、俺はいつものように五右衛門風呂を沸かした。
この山に来た初日から、俺の相棒みたいなものだ。鋳鉄の丸い釜を、下から薪でじりじり炙る、原始的なやつ。最初は底板の踏み沈め方に手こずったが、今ではもう、目をつむってでも焚ける。
薪をくべ、湯加減を見て、板を踏んで沈む。肩まで浸かった瞬間、その日の疲れが、輪郭からじわりとほどけていった。
「……あー、生き返る」
鋳鉄の釜は、湯を芯から抱くように温める。ガスの給湯器とは、あたたまり方の質が違う。表面をなでるのではなく、骨の内側まで、じんわりと火が通っていくみたいだ。
一日、雪囲いの石を運んで冷えきった体が、指の先までゆっくりほどけていく。この、じわじわと満ちてくる心地よさが、たまらない。何度浸かっても、飽きることがなかった。
湯気の向こうで、天井の梁がぼんやり霞んでいる。そのぼやけた視界に、ふと、昼間の鞍馬さんの言葉が重なった。
露天。雪見の。山の湧き水で。
「山の湧き水で、雪を眺めながら、露天風呂……」
声に出してみて、ぞくりと鳥肌が立った。あたたかい湯に浸かっているのに、だ。
想像してみる。この、芯まで沁みる湯を、屋根のない空の下で味わうのだ。頭の上からは粉雪が舞い落ちて、火照った肩先で、ひとひらずつ溶けていく。目の前には、白く染まった山と、湯気を立てる湯船。
寒さと熱さが、ちょうど肌の上でせめぎ合う。冷たい夜気に頬を刺されながら、首から下は、とろけそうにあたたかい。その落差を思い描いただけで、背中がぞわりとした。
「なんだそれ、最高じゃないか」
思わず、湯の中で背筋が伸びた。
「想像しただけで、うっとりするぞ……」
こんな山奥に露天風呂だなんて、贅沢にもほどがある。入りに来る客がいるわけでもなし、結局、浸かるのは俺ひとりだ。まあ、それでいい。自分ひとりのための、とっておきの贅沢。思い描くだけで、口元がにやけてくる。
◇◇◇
と、湯船の縁で、ちゃぷん、と小さな水音がした。
半透明のスライムが、いつのまにか湯の縁にちょこんと乗って、ぷるぷると弾んでいる。スイだ。俺の独り言を、聞きつけたらしい。
「あるじ、あるじ。今の、ほんとうですの? あたらしい湯船を、こしらえるんですの?」
いつもは澄まして構えているこいつが、めずらしく前のめりだ。半透明の体が、期待にきらきらと波打っている。
「まだ、思いついただけだよ。作れるかどうかも……」
「作りましょう! ぜひとも、作るべきですわ!」
言い切るなり、スイがぴょんと跳ねた。水場がひとつ増えるとなれば、こいつの領分が広がるということだ。誰よりも乗り気になるのも、無理はない。
「あるじの沸かす湯を、わたくしが極上に仕上げてさしあげます。露天なら、なおのこと腕が鳴りますわ」
得意げに胸を張る——ような仕草で、スイがひときわ大きく揺れた。相変わらず、自分の仕事にかけては一歩も引かないやつだ。
◇◇◇
湯から上がっても、胸の奥の熱は、少しも冷めなかった。
縁側に出ると、夜の底から、しんしんと雪が降っていた。庭も、畑も、直売所の屋根も、みんな青白い雪をかぶって、音を吸い込んで静まっている。
その白い庭のどこかに、湯気を立てる湯船がある。そんな絵を、俺はもう一度、頭の中に描いてみた。
漠然とした憧れが、さっきまでとは違う手ざわりになっている。「いいなあ」が、いつのまにか「欲しい」に変わって、その先へ、じりじりと進もうとしていた。
「作れるかな、俺に」
つぶやいて、白い息が夜に溶けた。石は素人、土木なんてもってのほか。考えれば考えるほど、無謀な気もする。
……いや。
「作りたい。作ってみたいな、これは」
言い直したら、胸の真ん中に、小さな火が灯った気がした。かまどの火みたいに、素直で、あたたかいやつだ。
雪はやまない。春は、まだ遠い。それでも、その遠い春へ向かって、俺の中で何かが、ゆっくりと動き出していた。




