第94話
鞍馬さんが俺の山まで来てくれたのは、石材屋で世話になってから、数日後のことだった。
昨日までの雪がやみ、空はよく晴れている。庭は一面の銀色で、木々の枝には綿帽子が乗っていた。
約束の刻限きっかりに、背の高い人影が、雪道を悠々と登ってくる。
「ふむ。聞きしに勝る、いい山ではないか」
玄関先に立つなり、鞍馬さんは庭をぐるりと見渡してそう言った。数日ぶりに見ても、相変わらず堂々としている。
俺はさっそく、裏手の湧き水へ案内した。岩陰から、真冬でも凍らずに湧き続ける、この山の水場だ。
雪をかぶった岩のあいだから、水がこんこんと流れ出している。手を浸しても、不思議と冷たすぎない。夏は涼やかで、冬はほんのりぬるい。越してきてからずっと、この水に世話になっている。
岩肌を伝う流れは、雪あかりを吸って、うっすら青みを帯びて見えた。耳を澄ませば、こぽ、こぽ、と絶え間なく湧く音がして、それが真冬の静けさのなかで、小さな体温みたいに脈打っている。しゃがんで手のひらですくうと、指の股から、澄んだ雫がきらきらとこぼれ落ちた。
思えば、この山に決めた最後のひと押しも、この水だった。下見の日、喉が渇いて何げなく口に含んだ一杯が、驚くほど甘くて、まろやかで。角の取れた、するりと喉を落ちていく水だった。蛇口をひねれば出てくる、あの薄く塩素の匂う都会の水とは、まるきり別の飲み物だ。
以来、飯を炊くのも、茶を淹れるのも、味噌を仕込むのも、この一滴に頼りきりだ。米はふっくらと立ち、茶は雑味なく澄んで、五右衛門風呂の湯は、肌にやわらかくまとわりつく。暮らしの味の底には、いつだって、この湧き水がいた。ありがたみにはすっかり慣れて、当たり前の顔で使ってきたけれど。
その当たり前を、鞍馬さんは、当たり前とは思っていないらしかった。
「ほう」
鞍馬さんは水際にしゃがみ込み、手ですくって匂いを嗅いだ。ひと口ふくんで、しばらく目を閉じている。
それから、ふと顔を上げ、あたりの空気をゆっくりと吸い込んだ。まるで、風のなかから何かを読み取ろうとするみたいに。
「……なるほど。良い巡りだ」
低くつぶやいて、鞍馬さんは立ち上がる。そして岩場を、一枚の絵でも検分するように、端から端まで見渡していった。
尾根の傾き、水の湧く向き、日の差し込む角度。その視線は、俺には見えない筋道を、たしかに拾っているようだった。石屋の目というのは、大したものだと思う。
俺なんか、この岩場は「据わりのいい石が多いな」くらいにしか見ていなかった。同じ景色を見ても、玄人が拾う情報の量が、まるで違うらしい。
◇◇◇
しばらく黙って歩き回ったあと、鞍馬さんは腕を組み、俺のほうを振り返った。
「おぬし。この湧き水の量、この岩場の傾き、この見晴らし……ふむ」
もったいぶるように、そこで一度、言葉を切る。
「これだけの条件が揃っておって、気づかんのか。ここは——いい湯が出るぞ。極上のな」
いい湯、と俺は繰り返した。温泉、ということだろうか。こんな山の中腹に、そんな上等なものが眠っているとは、正直、考えたこともなかった。
水場の縁で、ぷるん、と何かが揺れた。
スイだ。いつのまにか水面に顔を出したスライムが、雪あかりを弾いて、つやつやと光っている。
「ふふ。わたくしの水を、ようやく分かるお方が来ましたわ」
我が意を得たり、とばかりに、スイが得意げに波打った。自分の水を極上と言われて、水面ごと胸を張っているらしい。
俺は思わず、水場のスイと、岩場の鞍馬さんを見比べた。まあ、いい水なのは俺も知っている。麦茶を淹れれば店に出せそうなくらい、澄んで甘いのだ。
だが「極上の湯」とまで言われると、さすがに面はゆい。
「ただの湧き水ですよ。どこの山にも、これくらいはあるでしょう」
そう返すと、鞍馬さんは片眉を上げて、ふん、と鼻を鳴らした。
「どこにでもある、か。おぬし、とんだ果報を、ずいぶん安く見積もるのだな」
呆れたような、それでいてどこか楽しげな声だった。
◇◇◇
鞍馬さんは組んでいた腕をほどき、ぐるりと岩場を指し示した。芝居がかった仕草が、雪景色にやけに映える。
「なあ、結城。露天風呂を作らんのか、ここに」
露天風呂、と俺は間の抜けた声を出した。
「この山の湧き水と、この岩場なら、儂が保証する。都の湯屋も裸足で逃げ出す、極上の露天風呂ができるぞ」
都の湯屋、というのがどこの何を指すのか分からなかったが、たとえの大きさだけは、しっかり伝わってきた。
雪をかぶった岩場を、俺はあらためて見回した。滾々と湧く水、ほどよく段になった岩、その向こうに開ける、真っ白な山の稜線。言われてみれば、たしかに、絵になる。
もし、ここに湯が張られたら。雪を眺めながら、この澄んだ水に、肩まで浸かれたら。
家の五右衛門風呂の、芯までほどける心地よさが、ふっと頭をよぎった。あれを、この雪景色の真ん中で味わえたら、いったいどんな気持ちがするのだろう。
想像しかけて、俺は少しどきりとした。危ない。あやうく、その気になるところだった。
水場では、スイがまだ得意げに揺れている。鞍馬さんは腕を組み直し、返事を待つように、鷹揚にこちらを見下ろしていた。




