第90話
朝のうちに雪が落ち着いて、山の空はすっかり晴れ渡っていた。
軒先から下がった氷柱が、陽を受けてぽたりぽたりと雫を落としている。ゆうべまで吹きつけていた雪は嘘のように静まり、麓へ続く道も、これなら軽トラで下れそうだった。
鉄本さんは玄関先で、丸太みたいな腕をぐるりと回して、体をほぐしていた。
「さて、そろそろお暇するかな。あんまり長居すると、根が生えちまう」
そう言って、がっはっはと笑う。実際この人は二晩泊まっていって、そのあいだ工房のことも仕事のことも、まるで忘れたみたいに飲んで食って喋っていた。
俺は台所で握った塩むすびを、竹の皮に包んで差し出した。
「これ、道中の腹ふさぎに。あと、大根とネギも積んどきました」
「おう、もらっとくぜ。……ったく、行商の帰りみてえだな」
軽トラの荷台に野菜の袋を積みながら、鉄本さんは満足そうに荷台を叩いた。その太い指が袋の口をひょいと縛る手つきは、鉄を打つときと同じで、妙に迷いがない。
◇◇◇
運転席のドアに手をかけて、鉄本さんはふと振り返った。
「世話になったな」
短く言って、それから据えつけの薪ストーブのほうへ、ちらりと目をやる。ゆうべも一晩じゅう、あの黒い鋳鉄は素直に部屋を暖めてくれていた。
「次は酒を持ってくる。……いや」
言いかけて、鉄本さんは腕を組み、むむ、と唸った。
「酒じゃ足りねえな。せっかくだ、鉄鍋でも打ってくるか。あんたのかまど飯には、いい鍋が要る」
どうだ、と言わんばかりの顔だ。俺は思わずふきだしてしまった。手土産の相場が、酒から鉄鍋へ一足飛びに跳ね上がっている。田舎の鍛冶屋さんってのは、やっぱり気前の桁が違う。
「そんな上等なもの、握り飯一個とひきかえじゃ釣り合いませんよ」
「うるせえ。打ちたいから打つんだ。文句あるか」
がしっと差し出された手を握り返すと、その手はごつごつと硬く、そして万力みたいに力強かった。鍛冶で鍛えた握力ってのは、こういうものなのか。指の骨が軋みそうだ。
「また来てくださいよ。畑の野菜も、そのころにはもっと種類が増えてるはずなんで」
「ハッ、楽しみにしてるぜ。次は雪じゃなく、緑のころに来るとするか」
◇◇◇
エンジンがぶるんと震え、軽トラがゆっくりと動き出す。
縁側の陽だまりでは、赤いとかげ——エンが、名残惜しそうに尻尾をぱたぱた振っていた。ゆうべ、鉄本さんの燗酒をちゃっかり狙っては、あしらわれていたやつだ。
「行っちまうのかよ。あいつ、豪気で好きだったんだけどなー」
「また来てくれるってさ。今度は鉄鍋だと」
「マジか! 鉄鍋なら、オレの出番だぜ!」
水がめの縁では、スイがぷるぷると得意げに揺れている。コロは俺の肩の上で、あくびを噛み殺すみたいに、まんまるの目をとろんとさせていた。
荷台に積んだ野菜の袋が、雪道の白の向こうで小さく揺れて——やがて、木立の陰にすうっと消えていった。
あとには、しんとした静けさが戻ってくる。
枝から雫が落ちる音。遠くで雪の塊が、どさりと落ちる音。ゆうべまであんなに賑やかだった土間が、急にがらんと広く感じられた。
「……行っちゃったか」
誰にともなく、俺はそう呟いた。
「また来てくれるといいな」
湯呑みに残った茶をすすると、まだほんのり温かかった。
ふと思う。独りになりたくて、静けさが欲しくてこの山に逃げてきたはずなのに、いつのまにか、人が訪ねてくるのが当たり前になってきた。森野さんが時々ふらりと寄ってくれて、今度は鉄本さんが、雪をかき分けてまで遊びに来る。
それでいて、こうして客が帰ったあとの静けさも、俺は嫌いじゃなかった。人の気配で温まった部屋に、しんとした冬の空気がゆっくり戻ってくる。むしろ、さっきまでの賑やかさが余韻になって、静けさをいっそう心地よくしてくれる気さえする。
都会にいた頃は、賑やかさも静けさも、どっちもただ疲れるだけのものだった。人混みに揉まれて磨り減って、部屋に帰れば今度は、静かすぎる一人きりが胸に刺さった。ここでは、そのどちらもが、ちゃんと温かい。
賑やかさも、静けさも、どっちも今のこの家の一部なんだな。
肩のコロが、ふにゃりと頭にもたれてくる。エンはさっそくストーブの前へ移動して、消えかけの熾火をつついて遊んでいた。
「さて。俺も、鉄鍋に見合ういい米でも炊いとくか」
次にあの豪快な笑い声がここに響くのは、雪が解けて、山が緑に染まるころだ。
それまでのあいだ、この家は、また静かに冬を過ごす。訪ねてくる誰かを、のんびり待ちながら。




