第89話
薪ストーブの上で、土鍋がことこと鳴りはじめた。
外はとっぷり日が暮れて、窓の向こうは墨を流したような闇だ。昼まで降っていた雪はいったん止んで、しんと冷え込んでいる。そのぶん、火のそばの温かさが、いっそう身に染みた。
「よう、いい鍋じゃねえか。中身はなんだ」
鉄本さんが、あぐらをかいたまま鼻をひくつかせる。この秋に据えた薪ストーブの調子を確かめては、さっきから一人で機嫌よく飲っている。
「うちの畑の白菜と大根、あとは地鶏ときのこですよ。味噌仕立てで」
俺は蓋を取って、玉杓子で中を軽くかき混ぜた。
ぐつり、と土鍋の縁が沸いて、白い湯気がもうもうと立ちのぼる。くたりと煮えた白菜が透きとおって、味噌の色をまとっている。ぱちぱちと脂の爆ぜる音に混じって、鶏と味噌の匂いが湯気に乗り、鼻の奥をふわりとくすぐった。
「ほう……こいつはたまらん」
鉄本さんの喉が、ごくりと鳴る。
俺は大ぶりの椀に、具をどっさりよそって差し出した。鉄本さんはそれを受け取るなり、熱いのもかまわず豪快にかき込む。
「っ……はふ、はふ。……うめえっ!」
湯気で顔を真っ赤にして、太い腕で額の汗をぬぐう。大根に箸を入れれば、じゅわりと味噌の出汁があふれ、白菜はとろとろ、鶏はほろりと骨から外れる。俺も一口すすると、体の芯までじんわり温まった。
しかし、まあ、よく食う人だ。
よそってもよそっても、鉄本さんの椀はすぐ空になる。鍋の具が見る間に減っていくのを、俺は感心半分、呆れ半分で眺めた。そのうえ酒も、一升瓶がとっくに半分を切っている。
「鉄本さん、いける口ですねえ」
「がっはっは、これしき水みてえなもんよ」
田舎の職人さんってのは、揃いも揃って底なしだ。街の呑み会でへろへろに潰れていく同僚たちに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
◇◇◇
その足元で、赤い影がちろちろと動いていた。
エンだ。手のひらほどの小さなサラマンダーが、鉄本さんの猪口のふちに前脚をかけ、鼻先を寄せてくんくんやっている。尻尾の先の火が、物欲しそうにゆらゆら揺れていた。
「こら、エン。酒はまだ早いぞ」
「だってさー、すっげえいい匂いすんだぜ、これ! ちょっとだけ、ちょっとだけだから!」
俺の声なんか、聞きゃしない。エンは短い前脚をめいっぱい伸ばして、猪口によじ登ろうと必死だ。
それを見て、鉄本さんが太い眉を上げた。この人にも、精霊の姿はちゃんと見えている。
「がっはっは! なんだお前、飲むのか。しょうがねえ野郎だ」
鉄本さんは猪口の酒を指先にちょんとつけ、エンの鼻先へ差し出してやった。エンがぺろりと舐めるなり、尻尾の火が、ぼわっと勢いよく燃えあがる。
「うおっ、あちー! でも……うめー!」
ストーブの周りは、すっかりお祭り騒ぎだった。
棚の上ではスイが湯気を集めてぷるぷる震え、俺の頭のてっぺんではコロがぬくもりにとろけて、うとうとしている。モクだけは梁の上で腕を組み、我関せずを決め込んでいるが、その耳がときどき楽しげに動くのを、俺は見逃さなかった。
賑やかだ。とにかく、賑やかだった。
「……山に来てから、ほんと賑やかだな」
俺はふと箸を止めて、可笑しくなってしまった。独りになりたくて、静かに暮らしたくて、こんな山奥まで逃げてきたはずなのに。
気づけば、家の中はいつも誰かしらの声で満ちている。人だったり、精霊だったり、酒を狙う赤いとかげだったり。まったく、あてが外れるにもほどがある。
でも、悪くない。むしろ、こっちのほうが、ずっといい。
◇◇◇
夜がふけて、一升瓶がとうとう空になった。
したたか飲んだ鉄本さんは、締めの雑炊まできれいにたいらげて、大きく息をついた。とろりと卵の溶けた飯を、最後の一粒まですくって。
赤ら顔で天井を見上げ、しばらく黙り込む。
と、ふいに、その目からふざけた色が消えた。
「……あんた、いい暮らししてるよ」
低く、しみじみとした声だった。さっきまでの豪快な調子とは、まるで別人のようだ。
「正直、羨ましいくらいだ。……俺も、こういう場所が欲しかったのかもな」
ぱち、とストーブの薪が爆ぜる。
俺はなんと返していいか分からず、ただ手元の椀に目を落とした。この豪快な人にも、そんなふうに漏らす夜があるのか。
窓の外では、また雪が降りはじめたらしい。
しんしんと降り積もる白の下で、火のそばだけが、じんわりと温かかった。




