第88話
雪が小止みになったのは、朝方のことだった。
三日ぶりに、空から白いものが落ちてこない。厚い雲の切れ間から薄い日差しが雪原に射して、庭一面がまぶしく光っている。
屋根から滑り落ちた雪の山を崩していると、麓のほうから、聞き覚えのないエンジン音が近づいてきた。
こんな雪道を、車で登ってくる物好きがいるのか。俺がスコップを止めて振り返ると、雪をばりばり踏みしめて、一台の軽トラが庭先に突っ込んできた。
運転席から、ずんぐりと厚みのある体が、勢いよく飛び降りる。無精髭に、丸太みたいな腕。見間違えるはずもない。
「よう、生きてたか。雪に埋もれてへんかったか」
鉄本さんだった。豪快にそう言って、がっはっはと笑う。その声が、静まりかえった雪山に、わんわんと反響した。
「鉄本さん……! 本当に来たんですか、この雪の中を」
「言ったろうが。冬になったら遊びに行くってな。約束は約束だ」
当たり前だという顔で、鉄本さんは肩の雪をばさばさと払う。膝まで埋まるこの雪を、まるで平地の散歩みたいに踏み分けてきたらしい。荷台には、酒瓶の入った木箱が一つ、ごとんと積まれていた。
都会の人間なら、こんな日はまず出歩かない。それを、約束一つで麓から登ってくる。ずいぶんと律儀で、そして健脚な人もいたものだ。
◇◇◇
ともかく、立ち話で凍えさせるわけにもいかない。俺は鉄本さんを、暖めた居間へ通した。
部屋の真ん中では、あの薪ストーブが、赤々と火を灯している。鉄本さんが打った、とっておきの一台だ。鋳鉄の胴がじんわりと熱を放って、部屋中をぬくもりで満たしていた。
この冬、俺の暮らしを底から支えてくれているのが、こいつだった。朝はこれで湯を沸かし、夜はこの前で本を読む。すっかり、この家の心臓みたいな存在になっている。
鉄本さんは戸口で足を止め、そのストーブを、じっと見つめた。
つかつかと歩み寄って、扉の建て付けを確かめ、胴に手のひらをそっと当てる。炎の色を覗き込み、満足げに、ふうむ、と唸った。
「ちゃんと使い込んでるな。いい火だ」
節くれだった指が、黒い鋳鉄の表面を、いとおしそうに撫でる。
「こいつも、幸せもんだよ。打った甲斐があったってもんだ」
そのストーブの上で、赤いとかげ——エンが、ぱたぱたと尻尾を振っていた。
「なあなあ、この火、オレが育ててやってんだぜ! すげーだろ!」
得意げに胸を張るエンに、鉄本さんはにやりと笑い返す。どうやらこの人にも、精霊の姿が見えているらしい。
「おう、たいした火の番だ。感心したぜ、ちびすけ」
「ちびすけじゃねーし!」
むきになって尻尾を膨らませるエンを、鉄本さんは楽しそうに眺めている。火のまわりのやりとりだけは、この二人、妙に気が合うようだった。
◇◇◇
俺は鉄鍋に湯を沸かし、生姜をたっぷりすった葛湯を、二つの湯呑みに注いだ。冷えた体には、まず甘くて温かいものがいい。
鉄本さんは湯呑みを両手で包んで、うまそうにすすった。ほう、と白い息を吐いて、ぐるりと部屋を見回す。
煤けた梁、繕った障子、隅に積んだ薪。どれも自慢できるようなものじゃない、俺の手仕事の跡ばかりだ。
その一つ一つを、鉄本さんはゆっくりと眺めていった。そうして、しみじみと漏らす。
「いい山だな、ここは」
「え?」
「なんつうか、居心地がいい。長居したくなる」
湯気の向こうで、鉄本さんの目が、細く和らいでいた。
俺は照れくさくなって、頭を掻いた。掃除もそこそこの、ただの古い家だ。居心地がいいなんて、世辞にしても大げさな気がする。
まあ、雪の中を歩いてきた人には、暖かい部屋ってだけで御馳走なんだろう。この一杯が、よほど体に沁みたに違いない。
考えてみれば、この山に人が訪ねてくるのは、森野さんに続いて二人目だ。誰も住んでいなかったこの家に、いま、豪快な笑い声が響いている。
独りになりたくて登ってきた山なのに、不思議なものだ。でも、悪くない。むしろ、こういう賑やかさも、なかなかいいものだと思う。
鉄本さんは湯呑みを置くと、また火のそばへ戻っていった。エンと何やら、火の育て方で盛り上がっている。この分だと、しばらく腰を上げそうにない。
まあ、いい。旨いもんを食わせろ、が約束だったのだ。
「せっかく来てくれたんだ。腕によりをかけて、もてなしますよ」




