第86話
雪見障子を、指の幅ぶんだけ、そっと横に引いた。
ガラス越しに、外の景色が四角く切り取られる。庭木も、直売所の屋根も、山ぜんたいが青白い雪に沈んで、しんしんと降り続いている。音という音を、綿がまるごと吸い込んだような静けさだ。
隙間から、刃物みたいに冷たい空気が、すうっと足元を撫でていく。
なのに、俺の膝から前は、ほかほかとぬくい。卓の真ん中に据えた土鍋が、ぐつぐつと白い湯気を噴き上げて、狭い部屋をひとつの温泉みたいに満たしているからだ。
障子一枚を隔てて、外は白一色の極寒。内はといえば、湯気と味噌の匂いで、もうすっかり春みたいな暖かさである。この落差が、たまらない。
鍋の中では、味噌の色をまとった汁が、ゆるやかに踊っている。
まずは、白菜と大根。畑で穫れたやつを、大根はことこと下茹でしてから、白菜は硬い芯と葉っぱを時間差で沈めていく。芯の甘みが汁にじわりと溶けだして、ふつふつと小さな泡が立つころには、部屋じゅうが味噌の香ばしい匂いで満ちていた。
そこへ、地鶏をひと切れずつ。ぷりっとした身が、汁の中でみるみる白くふくらんでいく。
仕上げに、きのこをどっさりだ。しめじも椎茸も、傘のひだから旨みを吐き出して、汁の色が、いちだんと深くなった。
白菜がくたりと透きとおり、大根に味がしみて飴色になったころが、たぶん一番うまい。何を先に入れて、どこで火を弱めるか。手順さえ押さえておけば、鍋というのはまず失敗しない。段取りが物を言う仕事は、昔から嫌いじゃなかった。
◇◇◇
それにしても、この火加減がいい。
「あるじ! いい感じだろ、いい感じ!」
湯気の向こうで、赤いサラマンダーが得意げに胸を張っていた。手のひら大のエンが、鍋の下の熱の中を、ちろちろと機嫌よく踊っている。ふきこぼれる寸前でふっと火が引き、また煮えばなを逃さずに立ちのぼる。惚れ惚れするような、絶妙のさじ加減だ。
「へえ、この土鍋、火の通りがいいなあ。いい買い物したよ、ほんと」
「……ちがうっつーの。まあ、いいけどよ」
エンが尻尾の火を、ぱちんと跳ねさせた。何が「ちがう」のか、俺にはさっぱりわからない。まあ、火の精霊の言うことだ、深くは考えまい。
湯気で白く曇った窓を、袖でひと拭き。降りしきる雪を眺めながら、燗をつけた徳利を、そっと傾けた。
ちろりで温めた酒が、喉の奥をとろりと滑り落ちて、腹の底にぽっと火を灯す。冷えた指先を鍋の湯気にかざせば、じんとしびれるような温もりがしみてくる。外は極寒、こっちは湯気で天国だ。窓一枚を隔てて、これほど別世界があっていいものか。
「……雪見酒って、人類の発明の中でも、トップクラスじゃないか」
誰にともなく呟いて、俺はひとり、深くうなずいた。
◇◇◇
ひとしきり具を食い、汁が具の旨みでとろりと濃くなったころ。いよいよ、締めにかかる。
残った汁に冷や飯を放り込み、箸でほぐして、ことこと煮る。米が汁を吸って、ふっくらとふくらんだところで、溶き卵をまわしかけ、蓋をして、火を止めた。
その瞬間、エンがすっと熱をやわらげてくれる。余熱でとろりと固まった半熟の卵が、雑炊ぜんたいを、ふわりと黄金色に染めていった。
湯気ごと、れんげですくって、すする。
米の甘さと、味噌のコク、鶏ときのこの旨みが、卵にぜんぶ抱きとめられて、とろとろと喉を落ちていく。腹の底から、じんわりとした温もりが、体の隅々まで広がった。
「はー……幸せだ」
背中をまるめて、俺はしみじみと息を吐いた。
窓の外では、雪がなおも、しんしんと降り積もっている。この静けさの底で、あったかい雑炊をひとりすすっている。ただそれだけのことが、どうしようもなく満ち足りていた。
「こんな冬の過ごし方があるなんてな。去年の俺に、見せてやりたいよ」
去年の今ごろは、凍えたワンルームで、コンビニ弁当を膝に載せ、テレビの明かりだけを頼りに年を越そうとしていた。あの頃の俺に、この湯気と、この静けさを、どう伝えたらいいだろう。おおかた、疲れて夢でも見ているのかと、心配されるのがオチだ。
湯気の中で、エンがくるりと一回転して、満足げに伸びをした。
鍋は、まだぐつぐつと温かい。雪はまだ、やみそうにない。
もう一杯くらい、ゆっくりいけそうだ。




