第85話
まぶたの裏が、ちりちりと熱い。
「あるじ、朝だぜ! 起きろって、朝ぁ!」
枕元で、小さな炎がぱちぱち跳ねている。手のひら大の赤いサラマンダーが、俺の鼻先で尻尾の火を振り回していた。火の精霊、エンだ。この頃こいつは、目覚まし時計を勝手に自任している。
俺は半分寝ぼけたまま身を起こし、障子を引いた。とたん、まぶしさに目を細める。
外は、一面の白だった。
ゆうべから降り続いた雪が、庭も、畑も、直売所の屋根も、何もかもをふっくらと覆っている。軽トラを停めた辺りは、もう小山みたいなふくらみになっていた。麓へ下りる山道は、どこが道だったのかも分からない。すっかり、雪に呑まれている。
これで、しばらくは下りられないな。
そう思っても、不思議と、焦りはなかった。保存食はたっぷり仕込んである。薪も割ってある。備えは、この秋の俺が律儀に固めておいてくれた。
耳が痛くなるほど、静かだった。
雪は音を吸う。鳥の声もしない、風もない。世界から、ここだけがそっと切り離されて、まっさらな白の中にぽつんと浮かんでいるみたいだった。こんな雪の底の一軒家を、わざわざ訪ねてくる物好きなんて、そうそういるはずもない。世界のほうも、こんな山奥の男のことなんて、とっくに忘れているに違いない。
——まあ、俺としては、それくらいがちょうどいいのだけれど。
◇◇◇
「あるじー! なにボーッと突っ立ってんだ! 腹減ったぜ、なんか焼こうぜ!」
殊勝に一人きりを噛みしめていられたのは、そこまでだった。エンが尻尾の火を跳ねさせて、足元でぴょんぴょん飛び回っている。世界の果てみたいな静けさは、この火のとかげ一匹で、あっさり吹き飛んだ。
台所へ立つと、水がめのふちで、スイがぷかぷか浮いていた。半透明のスライムが、朝の光を受けて、ぷるんと涼しげに光っている。
「あるじ、おはようございますわ。お湯の支度は、もう済ませておきましたのよ」
「気が早いな。まだ朝だぞ」
「雪の日は、体を冷やしてはいけませんもの。いつでも入れるように、温めておきましたわ。冷めにくくするのは、わたくしの得意ですのよ」
澄まして、スイがくるりとひと回りする。頼んでもいないのに湯を張っておいてくれる律儀さには、いつも頭が下がる。
囲炉裏の隅では、コロがまんまるに縮こまって、うとうとしていた。両手大の苔玉が、すっかり冬眠のかまえで、ときどき思い出したように、もぞりと動く。
「あるじぃ……やまが、ねむってるから……ぼくも、ねむいの……」
寝言みたいにそう言って、また目を閉じる。冬のあいだのこいつは、だいたい半分眠っている。土の精霊は、山の呼吸に合わせて、ゆっくりになるものらしい。
作業場のほうからは、こつこつと、小気味のいい音が聞こえてくる。覗くと、材木の上でモクが腕を組み、俺が昨日削りかけた木っ端を、渋い顔で検分していた。
「フン。雪で外に出られん日こそ、手を動かすもんだ。……お前のこの鉋がけ、まだ甘いぞ」
「朝から手厳しいな、相棒は」
「褒めてはいない。冬は長い。腕を上げるには、ちょうどいいと言っただけだ」
◇◇◇
薪ストーブに火を入れると、家の中が、じんわりと明るくなった。
鉄本さんが据えてくれた鉄の塊は、雪の日ほど頼もしい。ぱちぱちと薪の爆ぜる音、スイの温めた湯の匂い、うとうとするコロの寝息、モクの鉋の音。雪に閉ざされた家の中は、呆れるくらい、賑やかだった。
ふと、去年の冬を思い出す。
あの頃の俺は、都会の狭いワンルームで、たった一人の冬を越していた。仕事に追われて、帰るのはいつも深夜。休みの日は泥のように眠って、気づけば外は暗い。まる一日、誰とも一言も喋らないまま終わる日が、いくつもあった。
もし——あの頃の俺が、いきなりこの雪山に、ぽつんと一人で放り込まれていたら。
たぶん、参っていたと思う。この静けさに、この白さに、心のほうから先に押し潰されていたに違いない。
でも、今は違う。
枕元で朝を告げる火のとかげがいて、勝手に湯を温めてくれる水の子がいて、山と一緒にまどろむ苔玉がいて、渋い顔で鉋を睨む職人がいる。同じ「一人きりの冬」でも、去年とは、まるで別物だ。
雪は、たしかに世界を閉ざした。閉ざしたけれど、閉じ込められたこの小さな家の中は、こんなにも、あたたかい。
「……一人で越す冬も、案外、悪くないもんだな」
呟いてから、俺は小さく笑った。一人、じゃないだろう、これは。どう見ても。
◇◇◇
ストーブの上で、湯がくつくつと鳴りはじめた。
「あるじ! 湯が沸いたぞ! なんか作ろうぜ、あったかいやつ!」
「はいはい。じゃあ、雪見でうどんでも茹でるか」
「やった! 火加減はオレにまかせろ!」
エンが尻尾をぱちぱち躍らせる。すかさずスイが「出汁は澄ませておきますわ」と張り切り、モクが「フン、食ったら鉋の続きだからな」と釘を刺す。
その横で、コロが半分眠ったまま、まんまるの目を、うっすらと開けた。
「おうどん……」
まるきり寝言だ。俺は思わず、小さく噴き出した。
外は、しんしんと雪が降り続いている。麓とはしばらく行き来もできない、世界の隅っこみたいな一軒家。
それでも俺は、この賑やかな冬ごもりが、もうすっかり、気に入っていた。




