第84話
朝から、雪がしんしんと降り続いている。
障子の向こうは一面の白で、山へ続く小道は、とうに雪の下に埋もれてしまった。こんな日に外仕事へ出たところで、道を作るそばから、雪が埋め戻していくだけだ。ならば、じたばたしても仕方がない。
というわけで、今日はきっぱり、室内仕事の日と決めた。
薪ストーブに火を入れると、鋳鉄の胴がじんわり温まって、部屋の空気がやわらかくほどけていく。鉄本さんが据えてくれたこいつは、本当に働き者だ。薪を一本くべておけば、半日は文句も言わずに、部屋じゅうを暖め続けてくれる。
ストーブのわきでは、赤いサラマンダーがちんまり丸まっていた。
「あるじ、この火、いい火だぜ。今日はずっと、オレがついててやるからな!」
炎の中でごろりと寝返りを打って、エンが得意げに尻尾を揺らす。寒い日のこいつは、ストーブから一歩も動かない。まあ、火の精霊にとっては、ここが特等席なんだろう。
俺はその前に道具を広げて、まずは手入れから取りかかった。
鉈に鎌、鑿の刃を、一本ずつ検分していく。秋のあいだ散々こき使ったから、刃こぼれや錆が出ていないか、時間のある今のうちに、じっくり見てやりたかった。
油を含ませた布で刃を拭い、砥石を出して、しゃり、しゃりと研いでいく。この単純な作業が、なんとも心地いい。
作業台の隅では、モクが腕を組んで、俺の手元をのぞきこんでいた。
「フン。……その研ぎ方、悪くないな」
「お、珍しく合格点か」
「刃物を大事にする男は、嫌いじゃない。まあ、丸ノコの切れ味には、かなわんがな」
結局こいつは、最後は文明の利器を持ち出してくる。職人肌のくせに、と俺は笑った。
◇◇◇
道具の手入れが一段落して、次は台所の保存食を見にいった。
秋に仕込んだ味噌は、樽の中で静かに色を深めている。軒下の干し柿は白い粉をふきはじめ、漬物の樽も、ちょうどいい塩梅に漬かってきた。どれも、順調だ。
味見に、干し柿をひとつつまむ。ねっとりと甘くて、我ながら悪くない出来だった。
「まあ、素人の手仕事にしちゃ、上出来ってとこかな」
誰に食わせるあてもないが、こうして蓄えが増えていくのは、単純に気分がいい。冬のあいだ、飢える心配のない安心感というやつは、何ものにも代えがたい。
水がめのそばでは、スイがぷかりと浮いて、こちらを見上げていた。
「あるじ、お味噌の樽の水加減は、わたくしが見ておきましたわ」
「お、頼りになるな。さすがだ」
「ふふ。まかせてくださいまし」
得意げに、スイがちいさく波打つ。この家の水まわりは、すっかりこいつの縄張りだ。
◇◇◇
ひと通りの仕事を終えて、俺はストーブの前に腰を落ち着けた。
積んだままだった本を一冊抜いて、湯気の立つ茶をかたわらに置く。ページをめくる音と、薪のぱちぱち爆ぜる音のほかには、何も聞こえない。
時間が、ずいぶんゆっくり流れている。
膝の上では、コロがまんまるに丸まって、うとうと舟をこいでいた。
「あるじぃ……やまが、ねむいから、ぼくも、ねむいの……」
寝ぼけた声でそう言って、また目を閉じる。冬の山に合わせて、こいつの時間まで、とろとろにゆるんでいるらしい。
俺は本を閉じて、しばらくその寝顔をながめた。
都会にいた頃は、こんなに静かで、何にも急かされない時間なんて、一分もなかったな。
着信も、締め切りも、次の予定を告げるアラームもない。ただ雪が降って、火が燃えて、本のページがめくれていくだけの時間。
「贅沢だ、これは」
しみじみと、そう思った。あの頃はいつも何かに追い立てられて、静けさが訪れるのが、こわいくらいだったのに。
◇◇◇
窓の外では、雪がなお降りつづけている。
日が翳って、部屋には雪明かりの、やわらかな白がさしこんでいた。音という音を、雪がぜんぶ吸い込んでしまったみたいに、山は深く静まりかえっている。
ふと手を止めて、俺はその静けさに、そっと耳をすませた。
「静かって、こんなに気持ちいいものだったのか」
ストーブがぱちりと爆ぜて、エンが炎の中で寝返りを打つ。膝のコロは、しあわせそうな寝息を立てている。
雪の日の、なんでもない室内仕事。それがこんなに満ち足りたものだなんて、去年の俺は、きっと思いもしなかっただろう。




