第82話
夜のうちに、山がもう一段、深く白くなっていた。
雨戸を引いた俺は、しばらく口を半分あけたまま突っ立っていた。昨日の雪が可愛く思えるくらいだ。庭も畑も、直売所の屋根も、何もかもが分厚い綿に、すっぽり埋もれている。
玄関先には、俺の脛が隠れるほどの雪が、しれっと積もっていた。
「これ、放っておいたら、家から出られなくなるやつだな」
のんびり見とれている場合ではない。長靴を履き込み、物置からスコップと、プラスチックのスノーダンプを引っ張り出す。秋のうちに揃えておいた道具だ。備えあれば憂いなし、とはよく言ったものである。
まずは玄関先から片づける。ざくっと雪に刃を差し込むと、見た目より、ずっと重い手応えが返ってきた。ひと掬い持ち上げて、脇の空き地へどさりと放る。
あとは、これを延々と繰り返すだけ。単純作業だ。
……のはずが、三十も掬わないうちに、俺は白い息を切らしていた。背中には、じんわり汗までにじんでいる。真冬の屋外で汗をかくとは、思ってもみなかった。
「聞いてはいたけど、雪かきって、こんなに重労働なのか」
腰を伸ばして、額の汗を拭う。それでも、掘った先を振り返れば、玄関からまっすぐ、黒い地面の道が一本のびていた。
やった分だけ、ちゃんと道ができる。積もった雪が、俺の手で確かに片づいていく。この、目に見えて成果が積み上がる感じは、悪くない。
「……嫌いじゃないな、この達成感」
思わず、そう独りごちていた。前の仕事では、一日中机に向かっても、何が進んだのか自分でも分からない日ばかりだった。それに比べれば、雪かきは、どこまでも正直だ。
◇◇◇
勢いがついたので、そのまま直売所までの小道に取りかかる。
軒下伝いに、人ひとりぶんの幅で、雪を退けていく。こんな大雪の日に、わざわざ山まで登ってくる物好きなんて、そうそういないだろう。
それでも、道はつけておく。うちの直売所には、律儀な常連さんがいるのだ。野菜と引き換えに、見慣れない外国のコインをそっと置いていく、粋な人が。この雪をものともせず通ってくるんだから、あの常連さんも、なかなかの物好きに違いない。
「……まあ、来たときに、埋もれてたんじゃ気の毒だしな」
道をつけ終え、ついでに軽トラの周りも掘り出す。屋根にこんもり雪を乗せた愛車は、まるで大福みたいだ。運転席のドアまで掘り進めて、ようやく一段落ついた。
ふう、と息をついて水場に目をやると、井戸端に、見慣れた半透明の影がぷかりと浮いていた。
スイだ。雪の下から細く流れ出した雪解け水を、つんつん、と楽しげにつついている。
「あるじ、ごらんなさいまし。冬の水は、きりっとして美味しいですわ」
得意げに、スイがひとつ波打った。溶けたばかりの雪の水は、よほどお気に召したらしい。
「そりゃよかった。俺のほうは、飲むより浴びてるけどな、汗を」
軽口を返すと、スイは何のことやら、ときょとんと澄ましている。こっちが汗だくで雪と格闘しているのを、我関せずで水を味わっているあたり、なんとも自由なやつだ。
◇◇◇
ひと通り掘り終えて、縁側の軒下でひと休みする。
見渡せば、玄関から直売所、軽トラまで、黒い道がきれいに通っている。真っ白な山の中に、俺の掘った道だけが線を引いていて、なんだか誇らしい。
もっとも、道が通ったところで、この雪では、麓まで降りるのは当分むずかしそうだ。山道がどうなっているかは、見に行くまでもない。
「買い出しは、雪が落ち着いてからだな」
そう口にしても、不思議と焦りはなかった。
なにしろ、家の中には、秋のうちに仕込んだ保存食が、うなるほどある。味噌に漬物、干し野菜に燻製。米も薪も、たっぷり蓄えてある。しばらく山を降りられなくたって、飢える気づかいは、まるでない。
おまけに、生活用品の類は通販で頼める。日用品くらいなら、数日も待てば玄関先まで届くのだから、ありがたい時代になったものだ。
「保存食、たっぷり作っといて、よかった。通販も届くし……秋の俺、ナイス判断だ」
半年前まで、自分の手で冬に備えるなんて、想像もしていなかった。それが今や、雪に閉じ込められても、俺はちっとも困っていない。
スイは相変わらず、雪解け水を味わっている。俺はもう一度スコップを担ぎ、まだ埋もれている物置の前へと、のっそり向かった。
雪はやんで、山はしんと静かだ。俺の掘る音だけが、白い世界にざくざくと、心地よく響いていた。




