第81話
朝、いつもより部屋が明るい気がして、俺は目を覚ました。
布団の中で、はて、と首をかしげる。障子の向こうがやけに白い。日の出にしては光の色が違うし、なにより空気の匂いが妙に澄んでいる。鼻の先だけがひやりと冷たくて、吐く息が薄く見えた。
寝ぼけまなこで身を起こし、縁側の障子に手をかける。すっと横に引いた瞬間、飛び込んできた景色に、俺は言葉を失った。
山が、まるごと真っ白だった。
昨日まで枯れ色だった庭も、畑の畝も、遠くの尾根も、何もかもが柔らかな雪に覆われている。杉の枝という枝に綿帽子がのって、朝日を受けて、きらきらと淡く光っていた。
「……うわ」
間抜けな声が、勝手に口からこぼれ落ちる。
俺は素足のまま、冷たい縁板に立ち尽くしていた。寒さも忘れて、ただ庭の白さに見入ってしまう。麓の人に「山はもっと積もるよ」と脅されてはいたが、いざ目の前にすると、覚悟していたぶんまで軽く吹き飛ばされる。
なにより、静かだった。
いつもは鳥の声や風の音で満ちている山が、今朝はしんと黙りこくっている。まるで雪が、山じゅうの音を残らず吸い込んでしまったみたいだ。自分の心臓の音が聞こえそうなほどの、まっさらな静けさ。
俺はそろそろと縁側に出て、庭の一面をぐるりと見渡した。畑の支柱にも、直売所の屋根にも、白い綿がふんわりと積もっている。昨日まで俺が汗をかいて手を入れてきた場所が、ぜんぶ、知らない国の景色みたいに生まれ変わっていた。
朝日が尾根の向こうから差してきて、雪原がほんのり桃色に染まる。
それはもう、ため息が出るほど清らかで、俺はしばらく、まばたきするのももったいなかった。
「山の冬って……こんなに、綺麗なのか」
しみじみと、声に出していた。
写真で見た雪景色とも、都会で降るあの灰色になっていく雪とも、まるで別物だ。ここの雪は、汚れる前の、いちばん最初の白のまま、山の上にそっと降り積もっている。
◇◇◇
三十路手前の男が、朝っぱらから素足で雪に見とれている。
冷静に考えれば、なかなかに締まりのない図だ。けれど、こんな景色を前にして、しゃんとしていられる人間のほうが少ないだろう。俺は苦笑して、それでも視線は雪原から外せずにいた。
と、肩のあたりが、いつもより少しだけ重い。
見ると、コロが俺の肩にちょこんと乗っていた。両手大の苔玉が、いつになくまんまるに、きゅっと縮こまっている。まるで冬眠を決めこんだ小動物みたいだ。
「あるじ、ゆき、ふったねぇ……」
とろんとした声で、コロが言う。まんまるの目が、半分とじかけている。
「おう、すごいぞ。見てみろ、山がまるごと真っ白だ」
俺が指さしても、コロはうとうとと舟をこぐばかりだった。冬眠前の熊みたいに、瞼が重たそうにゆっくり上下する。
「やまが、ねむるから、ぼくもねむいの……」
最後のほうは、もう寝言のようだった。
言い終わるや、コロはまた苔玉をきゅっと丸めて、俺の首もとにこてんともたれかかってくる。ほんのり土のような、乾いた草のような、あたたかい匂いがした。
山が眠るから、自分も眠い、か。
土の精霊にとって、冬は世界そのものが布団に入る季節なのかもしれない。俺は可笑しくなって、そっとコロの背中を指の腹で撫でてやった。
「わかったわかった。今日はゆっくり寝てろ」
小さな寝息が、耳のそばで、すぅすぅと聞こえてくる。眠る山と、眠る苔玉。そう思うと、真っ白な庭が、ますます穏やかなものに見えてきた。
◇◇◇
さて、と俺は我に返る。
いつまでも見とれてはいられない。感傷では腹はふくれないし、足がそろそろ限界に冷えていた。
厚手の靴下を履いて羽織を重ね、あらためて縁側の柱にもたれる。白い息を吐きながら、俺はようやく、雪の「その先」に思いを馳せはじめた。
あれ。これ、綺麗だのなんだのと言っている場合ではないのでは。
ふっと、現実の顔がのぞく。雪はただの絶景ではない。この下で、俺は暮らしていかなければならないのだ。
「これ、生活……できるのか?」
思わず、独りごちていた。
まず頭に浮かんだのは、軒下の軽トラだ。あいつは今、白い塊の下敷きになっている。あの曲がりくねった山道は、いったいどうなっているのか。
「車、出せるかな。買い出しは?」
指を折って数えてみる。米も味噌も漬物も、秋に仕込んだ保存食もたっぷりある。だが、生鮮のこまごましたものは、いずれ麓へ下りて調達するつもりでいた。それが当分できないとなると、話は少し変わってくる。
雪かきの道具は足りるか。屋根の雪は放っておいて平気か。水道は凍らないか。考えはじめると、白い庭が急に、手強い相手のように見えてくる。
とはいえ、だ。
俺は頭の中で、並んだ課題をそっと一列に並べ替えた。前の仕事で染みついた癖だ。慌てても仕方ない。要るもの、急ぐもの、後回しでいいものを、順に仕分けていけばいい。
雪山の暮らしは、初めての仕様だ。一気に片づけようとせず、今日はここ、明日はあそこ。そうやって、これまでも古民家を一つずつ直してきた。
「……まあ、なんとかなるだろ」
白い息といっしょに、そう吐き出す。
不安がゼロになったわけではない。それでも、目の前に片づけるべき仕事があるというのは、俺にとってはむしろ、ありがたいくらいのものだ。
肩の上で、コロがちいさく寝返りを打つ。眠る山の下で始まる、初めての冬。厄介は厄介だが、この清らかな白さの中で暮らせるなら、それも悪くない取引だと思えた。
俺はもう一度、雪をかぶった山を見渡して、ゆっくりと大きく伸びをした。
さあ、まずは軽トラを掘り出すところからだ。




