第80話
薪ストーブが、ぱちりと薪を爆ぜさせた。
俺は座椅子に背中をあずけて、その音を聞いていた。鋳鉄の天板がじんわりと熱を放って、部屋じゅうの空気を、芯からやわらかく暖めている。窓の外はもう、墨を流したような闇だ。けれど家の中は、橙色の光と、静かなぬくもりで満ちていた。
膝の上では、コロがまるくなっている。両手に乗るくらいの苔玉が、ストーブの熱をたっぷり浴びて、とろとろと目を細めていた。
「あるじの膝と、おひさまのにおいがするストーブと……ぼく、いま、せかいでいちばんあったかい場所にいるの」
寝ぼけた声で、そんな大げさなことを言う。俺は笑って、その小さな頭を指の腹でそっと撫でてやった。
ストーブのわきでは、エンが炎の中で寝そべっている。手のひら大の赤いとかげが、薪の熾火にうずもれて、ごろごろと機嫌よさそうだ。火の精霊にとっては、このストーブの中がいちばんの特等席らしい。
窓辺の水盆では、スイがぷかりと浮いている。半透明の体に橙の光を透かして、そのまどろみは、まるで小さな灯籠のようだった。
棚の上のモクは、腕を組んだまま、煙突の継ぎ目のあたりをじっと検分している。据えつけて何日も経つのに、まだ粗探しをやめないあたりが、いかにもこいつらしい。
「フン。今のところ、煙の抜けは悪くない。……悪くない、というだけだがな」
「褒め言葉として受け取っておくよ、相棒」
軽口を返して、俺は鉄瓶に手を伸ばした。しゅんしゅんと湯気を上げるやつを傾けて、湯呑みに白湯を注ぐ。ひと口ふくむと、まろやかな熱が、胸の奥までゆっくり落ちていった。
◇◇◇
湯呑みを両手で包んだまま、俺はぼんやりと、この半年のことを思い返していた。
思えば、ずいぶん遠くまで来たものだ。
春の終わり、全財産をはたいて、この山を買った。初めて登ってきた日、ここにあったのは、苔むした瓦と、腰まで伸びた雑草と、傾いたボロ棚だけだった。あの時の俺は、貯金通帳とにらめっこして、胃を痛めながら、それでも他にどうしようもなくて、ここへ逃げ込んできたのだ。
都会の俺は、たぶん、笑い方をどこかに忘れていた。眉間には縦じわが刻まれて、肩はいつも耳のあたりまで上がっていた。人の輪の真ん中にいても、いつも独りぼっちみたいな顔をしていた。
それが、どうだ。
荒れ放題だった段々畑は、夏野菜を実らせ、秋には芋や根菜をどっさりくれた。ボロ屋だった古民家は、雨戸もすべらかに動き、今は薪ストーブが家じゅうを暖めている。納屋には味噌樽や漬物、干し野菜や燻製が、冬を越すだけの蓄えとしてずらりと並んだ。
畑を荒らす獣とは、電気柵と手作りの罠で、ひと夏かけて渡り合った。守り抜いた畑が、そのままこの冬の蓄えになっている。
そして、独りぼっちだったはずのこの暮らしは、いつのまにか、こんなに賑やかだ。
膝には寝ぼけた苔玉、ストーブには火のとかげ、水盆にはまどろむスライム、棚の上には憎まれ口の職人。逃げてきたはずの山奥で、俺は毎日、こいつらと軽口を叩き合って笑っている。
人だって、そうだ。木のことなら何でも知っている森野さん。鉄を打たせたら右に出る者のいない、頑固で豪快な鉄本さん。半年前は、人の顔を見るのも億劫だったのに。逃げ込んだ先で、こんなにいい縁ばかり拾ったのだから、人生わからないものだ。
「……いい買い物だったよ、この山は」
しみじみと、声に出していた。
「半年前の、疲れ果ててた俺に、教えてやりたいくらいだ」
あの、通帳を睨んで胃を痛めていた男の肩を叩いて、言ってやりたい。おまえの博打は、案外どころか、大当たりだったぞ、と。
膝のコロが、寝がえりをうって、俺の腹にちいさな額をすりよせた。俺はその温みを手のひらで受けとめて、もうしばらく、ぬくもりの中に浸っていた。
◇◇◇
同じ初冬の夜を、遠い遠い場所の空も分け合っていた。
痩せた土地と魔獣に、長く苦しめられてきた辺境のネル村。その村は今、これまで一度も知らなかった、穏やかな冬の夜を過ごしていた。
村の集会小屋には、暖炉を囲んで、大勢の村人が集まっている。行商の若者ガロも、その輪の中にいた。
例年のこの季節、村は"耐える"ことしかできなかった。秋のうちに蓄えは尽き、塩も保存の術もない村では、冬はただ、じっと痩せ細っていく季節だった。毎年、幾人かは春を見ずに逝った。それが、この村の冬というものだった。
だが、今年は違う。
祠に現れる、腐ることを知らぬ聖なる糧。深い味わいの醸したもの、塩気の効いた漬けたもの、香ばしく燻されたもの。それらが、村じゅうの腹を、あますところなく満たしていた。
暖炉のそばでは、痩せていた子どもたちが、頬をふっくらさせて笑っている。その光景を眺めて、ガロは胸がいっぱいになった。
「なあ、みんな」
村の年寄りが、しわがれた声で、けれど晴れやかに言った。
「わしは、この歳になるまで、一人も欠けずに冬を越した年を、知らんかったよ」
小屋がしんとなって、それから、あちこちで、そうだ、そうだ、と声が上がった。ガロは目の奥が熱くなるのを、こらえきれなかった。
「春が来たらな」
誰かが、ぽつりと言った。
「祠の主さまに、感謝祭をやろうじゃないか。花を飾って、歌って、ごちそうを供えて。……あのお方に、村じゅうの"ありがとう"を届けるんだ」
いいな、それがいい、と、笑顔がさざなみのように広がっていく。ガロは、まだ見ぬ主さまの顔を思い描きながら、そっと胸の前で手を合わせた。
どこの、どんなお方かも知らない。ただ、この村を丸ごと救ってくださった、遠い、遠いお方。
その主さまが、山ひとつ向こうの暖かい部屋で、燻製をつまみに白湯をすすりながら「いい買い物だった」とのんきに笑っている、ただの少し疲れの抜けた元会社員だとは。
ネル村の誰ひとりとして、まだ、知る由もなかった。
◇◇◇
薪が、また、ぱちりと爆ぜた。
俺はうとうとしかけて、はっと目を開けた。膝のコロは、いつのまにか寝入っている。スイもエンも、モクさえも、それぞれの居場所で、静かに夜を楽しんでいた。
ふと、窓の外が気になって、俺は首をめぐらせた。
闇の中を、なにか白いものが、ちらり、ちらりと横切っている。ガラスに顔を近づけて、目を凝らす。それは、ひらり、ひらりと舞い落ちる、ごく小さな、白いかけらだった。
「……雪だ」
思わず、声がこぼれた。
この山で迎える、初めての雪。まだ積もるほどではない。夜のとばりの中を、ためらいがちに、ぽつり、ぽつりと降りてくる、初雪の気配だ。
膝のコロが、その気配を察したように、ちいさく身じろぎした。ストーブの中のエンが、ぱちりと火の粉を跳ねさせる。窓の外は凍える闇でも、この部屋の中は、どこまでも暖かかった。
考えてみれば、俺はもう、この冬を怖がっていない。暖房も、蓄えも、賑やかな相棒も、頼れる縁も、ぜんぶ揃った。ここから先は、この山で築いた暮らしを、もっと深めていくだけの季節だ。
白湯を飲み干して、俺はもう一度、窓の外に目をやった。
「初めての雪、この山だと、どんなふうに降るんだろうな」
明日の朝、目が覚めたら、庭は真っ白になっているだろうか。畑も、直売所も、山ぜんたいが、雪の帽子をかぶっているのだろうか。想像すると、なんだか子どもみたいに、胸がわくわくしてきた。
都会にいた頃は、雪なんて、通勤の邪魔者でしかなかった。それが今は、初めてのものを待つ子どもみたいに、心の底から楽しみだ。
膝のコロが、寝ぼけたまま、俺の腹にもう一度、額をすりよせる。
俺はその小さなあたたかさを手のひらで包んで、暖かい部屋の中で、静かに降りはじめた初雪を、いつまでも眺めていた。
この山での、初めての冬が、そっと始まろうとしていた。
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あとがき
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