第79話
朝、目を覚ますと、部屋がほんのりと暖かかった。
薪ストーブのことだ。夜のうちに熾火が残っていて、鋳鉄がまだ芯にぬくもりを抱えている。布団から出るのが億劫でしかたなかった去年の冬とは、そこからしてもう違う。
窓の外は、うっすらと白い。霜だ。畑の土も、庭木の枝も、初冬の朝の細かな氷に縁取られて、しんと静まりかえっている。
俺は薪をひとくべして、鉄瓶を天板に乗せた。しゅんしゅんと湯が沸くまでのあいだ、窓辺に立って庭を眺める。
軒下には、割った薪が隙間なく積み上がっている。雪が来ても濡れないよう、モクと相談して屋根も張った。庭木には縄で雪囲いを施し、水道の管には凍結よけの布を巻いてある。ひととおり、冬の支度は整った。
「あるじ、おはようなの」
肩のあたりで、寝ぼけた声がした。苔玉のコロが、俺の頭にちょこんと乗って、まんまるの目をこすっている。
「おはよう。お前、今日も俺の頭で寝てたのか」
「あったかいんだもの……」
どうやら、湯たんぽがわりにされているらしい。ストーブがあるんだから、そっちで寝ればいいものを。律儀なのか、ただ甘えたいだけなのか。
◇◇◇
台所に立って、朝飯の支度にかかる。
鍋に、干しておいたきのこと、味噌をひと匙。ぐらりと煮立たせて、仕上げに刻んだネギを散らす。納屋には、この秋に仕込んだ蓄えがずらりと並んでいる。味噌樽、漬物、干し野菜、燻製、干し柿。ひと冬ぶんの安心が、あそこに詰まっている。
「あるじ、そのお味噌、いいにおいですわ」
水がめの縁で、スイがぷかぷかと揺れている。半透明の体に朝の光がきらきら差して、涼しげというより、今朝はどこか暖かそうだ。
「お前が浄めてくれた水で仕込んだやつだからな。うまくできてるといいけど」
「わたくしの水ですもの。間違いありませんわ」
澄まして言うところが、こいつらしい。
ストーブの前では、エンが火の中でごろごろ転がっていた。赤いサラマンダーが、燃える薪のあいだで、これ以上ないというほど機嫌がいい。
「あるじー! 今日はなに焼くんだ!?」
「まだ朝だぞ。マシュマロは夜な」
「ちぇっ。約束だからな!」
作業台の上では、モクが腕を組んで薪棚を検分していた。葉っぱの羽を小さく揺らして、渋い顔で唸っている。
「フン……この積み方なら、雪の重みでも崩れんな。まあ、及第点だ」
「相棒のおかげだよ。屋根の勾配、お前が直してくれたろ」
「……フン。当然のことをしたまでだ」
照れているのを隠すのが、相変わらず下手なやつだ。
◇◇◇
湯気の立つ味噌汁を椀によそって、俺は朝の食卓についた。
炊きたての飯に、燻したベーコンを一切れ。漬けておいた白菜が、ぱりぱりと小気味いい音を立てる。暖かい部屋で、暖かい飯を食う。それだけのことが、こんなにも満ち足りている。
ふと、箸を止めて、俺はこの半年を思い返した。
軽トラの荷台に全財産を積んで、曲がりくねった山道を登ってきた春の日。写真では「趣のある古民家」で、実物は「立派なボロ家」だった。瓦は苔むし、雨戸は歪んで、貯金と退職金を全部つぎ込んだ結果がこれかと、我ながら呆れたものだ。
それが、どうだ。
修繕した古民家に、薪ストーブの暖。畑には冬野菜が育ち、納屋には蓄えが満ちて、家のあちこちに賑やかな相棒たちがいる。
「よく、ここまで来たなあ」
しみじみと、声に出していた。
「買った時は正直、勢いだけの無謀な買い物だと思ってたけど」
いい買い物だったよ、と、今なら胸を張れる。
そういえば、と思い出す。直売所に並べた保存食が、このごろ出すそばから消えていく。料金箱のわきには、見慣れないコインや、丁寧に整えられた品が、まるで供え物みたいにうやうやしく置かれていることもある。
「田舎の手作りが、そんなに喜ばれるものかな」
俺の漬物と燻製に、ずいぶん熱心な常連さんがいるらしい。ありがたい話である。
◇◇◇
飯を食い終えて、俺は縁側に出た。
初冬の空は高く、澄んでいる。吐く息が白い。庭の霜が、日を浴びて、少しずつ溶けはじめていた。
膝には、いつのまにかコロが乗ってきている。スイが水がめから覗き、エンが火のそばで伸びをして、モクが作業台の上から見下ろしている。四匹そろって、今日も俺のまわりで、生き生きとしていた。
この冬は、なんとか越せそうだ。暖房も、蓄えも、備えも整った。あとは、初めての雪を待つだけ。
そこまで考えて、俺はふと、その先を思い描いていた。
来年の、冬のことを。
「来年の冬は、もっといい冬にできるかもな」
声に出すと、なんだか胸が弾んだ。今年これだけできたのなら、来年はもう少し欲張ってもいいだろう。
「露天風呂とか、あったら最高だよな……」
雪を眺めながら、あったかい湯にゆっくり浸かる。想像しただけで、口の端がゆるんだ。
都会にいた頃は、来年のことなんて、考える気力もなかった。明日をやり過ごすだけで精一杯で、未来なんて、不安の別名でしかなかったのだ。
それが今は、来年の冬が、楽しみでしかたがない。
膝のコロが、ぬくもりに目を細めている。俺はその小さな相棒を撫でて、まだ見ぬ初雪と、まだ見ぬ来年の冬に、しばらく心を遊ばせていた。




