第78話
窓の外で、風がひゅうと鳴った。
昼のうちに冷えきった山が、日が落ちるとともに、いっそう深く凍えていく。ガラス越しの庭は、もう墨を流したような闇だ。この冬いちばんの冷え込みだと、昼に集落の人が言っていた。
それでも、家の中はあたたかい。
部屋の真ん中に据えた薪ストーブが、鋳鉄の腹をほんのり赤らめて、芯からじんわりと熱を放っている。天板では鉄瓶がしゅんしゅんと鳴り、その隣で、味噌仕立ての鍋がくつくつと煮えていた。湯気と出汁の匂いが、部屋じゅうに満ちている。
「なあなあ、あるじ! マシュマロ焼こうぜ、マシュマロ!」
天板のふちで、エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせた。手のひら大の赤いサラマンダーは、火のそばに来るとてきめんに元気になる。
「気が早いな。飯は、まだ煮えてないぞ」
「マシュマロは別腹だぜ!」
この理屈にも、もう慣れた。俺は苦笑して台所から袋を取り、串に刺したマシュマロを天板にかざしてやる。焚き火のときと同じだ。エンが炎の熱をふわりとやわらげ、表面だけがきつね色に、中はとろりと、狙ったみたいな焼き加減になる。
「うまそーだな! なあ、これオレの手柄だぜ!」
「はいはい。お前のおかげだよ」
得意満面のエンに、俺は素直に頷いておいた。火加減をこいつに任せておけば、まず失敗がない。
◇◇◇
鍋が煮えるのを待つあいだ、燗をつけることにした。
徳利を湯のなかに沈めて、天板の端でそっと温める。人肌より少し熱いくらいで止めるのが、いちばんうまい。
膝の上では、コロがまるくなっていた。両手大の苔玉が、ストーブの熱にとろけるように目を細めている。
「あったかいねぇ、あるじ……」
「ああ。今日は特別に冷えるからな」
寝ぼけ声でそう言って、コロはまた俺の膝に額をうずめた。土いじりのない冬のあいだ、こいつはもっぱら、あたたかい場所を渡り歩いている。
鉄瓶のふちでは、スイがぷかぷか浮いていた。半透明のスライムが、立ちのぼる湯気に光を映して、涼しげに――いや、この季節はあたたかげに、ゆれている。
「あるじ。この鉄瓶のお湯、とびきり澄んでおりますわ。お燗も、さぞかしまろやかになりますことよ」
「お、頼りにしてるぞ。スイの水は、燗にすると格別だからな」
「ふふ。あるじの、お目が高いのですわ」
澄まして、スイがひときわ得意げに波打つ。この家の水がいつのまにか名水みたいな顔をしているのは、たぶん半分はこいつのおかげだ。
薪棚のわきでは、モクが腕を組んで、積んだ薪をじっと検分していた。
「フン。今日くべてる薪、乾きがいいな。いい音で燃えてる」
「だろ? 秋のうちに割って、しっかり乾かしたやつだ」
「……悪くない。まあ、割り方はまだ荒いがな」
言いながらも、こいつはまんざらでもない顔をしている。褒めているのか貶しているのか分からない職人だ。
◇◇◇
やがて鍋がいい具合に煮えて、俺は熱いのをふうふう言いながらすすった。味噌の香りと、根菜の甘み。燗酒をひとくち含むと、体の芯が、じんわりとほどけていく。
窓の外は、あいかわらず凍える闇だ。それなのに、この部屋だけが、笑い声と湯気であたたかく満ちている。
ふと、去年の今ごろを思い出した。
都会のワンルームだ。帰り着くのはいつも日付が変わるころで、コンビニの袋をひとつ提げて、暗い玄関を開けた。冷めた弁当をかき込んで、そのまま倒れるように眠る。あたたかいはずの部屋で、俺はいつも、指の先まで冷えていた。
あれから、まだ一年も経っていない。
それが、どうだ。膝には苔玉が甘えて、天板では火のとかげがマシュマロをねだり、水の精霊が燗酒を澄ませ、渋い職人が薪の音を褒めている。鍋はくつくつ煮えて、酒はまろやかに回っている。
「ぜんぶ、鉄本さんのストーブと、こいつらのおかげだな」
ひとりごちて、俺は湯呑を傾けた。俺はただ、火を焚いて、鍋を吊るしただけ。あたたかいのは、道具といい相棒に恵まれたからだ。
まったく、果報者もいいところである。
◇◇◇
燗のおかわりをつごうと立ち上がったとき、俺はふと、暗い窓ガラスに目をとめた。
外はもう真っ暗で、ガラスは鏡みたいに部屋を映している。ストーブの赤い火、立ちのぼる湯気、そのなかにぼんやりと立つ、ひとりの男。
それが自分だと気づくのに、一拍かかった。
「あれ。俺、こんな顔してたっけ」
思わず、声が漏れた。ガラスのなかの男は、なんというか――ずいぶん、穏やかな顔をしていた。
都会にいたころ、駅のホームの窓や、真っ暗になったパソコンの画面に、よく自分の顔が映った。あのころの目は、いつも死んだ魚みたいに濁っていて、見るたびに、そっと目をそらしたものだった。
いまガラスに映る男には、その濁りがない。
「……疲れた顔じゃ、なくなったな」
誰にともなく、俺は呟いた。
膝からずり落ちたコロが、きょとんと俺を見上げる。天板のエンが、串を持ったまま首をかしげる。スイが波打ち、モクが腕をほどく。何かあったのかと、四つのつぶらな目が、いっせいにこちらを向いた。
「なんでもないよ。……鍋、おかわりするか」
笑ってそう言うと、四匹はまた、思い思いにくつろぎはじめた。
窓の外の闇は深い。けれど、この家のなかは、いつまでも、あたたかかった。




