第8話
朝の光が障子を白く染めるころには、俺はもう土間に立っている。
山に来たばかりの頃は、昼近くまで泥のように眠っていた。都会で溜め込んだ疲れは、そう簡単には抜けてくれなかったのだ。それが今では、鳥の声とともに、自然と目が覚める。体のほうが、この土地の時間にすっかり馴染んだらしい。
朝飯を、きちんと作って食う。ただそれだけのことが、いつのまにか一日でいちばんの楽しみになっていた。
まずは、かまどに火を入れる。
昨夜のうちに割っておいた薪を井桁に組み、新聞紙をよじって火種にする。マッチを擦ると、ぱちりと小さく爆ぜて、炎がすっと薪の隙間へ吸い込まれていった。
この火の育ち方が、相変わらず素直だった。くべた薪が、まるで最初からそう組まれていたみたいに、過不足なく燃えていく。手こずった記憶が、一度もない。
土鍋に米を張り、山の湧き水を注ぐ。研いだ米が水を吸って、ふっくらと白く透きとおっていく。この水がまた、いつ汲んでも妙に澄んでいるのだ。
鍋をかまどにかけたら、次は味噌汁だ。
煮干しでとった出汁に、賽の目に切った豆腐を落とす。畑の隅で採れたネギを刻んで放てば、湯気に乗って、鼻の奥をくすぐる出汁の匂いが立ちのぼってくる。この香りだけで、腹がぐうと鳴った。
焼き網には、干物を一枚。皮のほうから炙ると、脂がじりじりと滴って、香ばしい煙が土間に満ちていく。
仕上げは、浅漬けだ。もいできたばかりのきゅうりと大根を薄く切り、塩をひとつまみ振って、手のひらでもむ。しゃくり、と小気味いい音が返ってくる。
一汁三菜。品数を指で数えて、俺はひとりで満足していた。
やがて、土鍋の蓋のふちから、ふっくらと甘い湯気が噴きはじめる。火からおろして、しばらく蒸らす。この待つ時間が、どうにももどかしくて、そのくせ悪くない。
蓋を取ると、白い湯気がふわりと顔を包んだ。まず来るのは、炊きたての飯の、あの甘い匂いだ。
鍋の中では、米の一粒一粒が、ぴんと立って光っている。しゃもじで底からそっと返すと、つやつやと真珠みたいに輝いて、思わず見惚れてしまった。
欠けた茶碗に山盛りによそって、いよいよひと口目。
うまい。噛むほどに粒が弾けて、じんわりと甘みが口いっぱいに広がっていく。味噌汁をすすれば、出汁の滋味が体の芯まで染みた。干物の塩気に、浅漬けのぱりっとした歯ごたえ。ひと皿ひと皿が、ちゃんと噛み合っている。
「朝から、こんなにちゃんとした飯を食えるなんてな」
誰にともなく、俺は呟いていた。
街にいた頃の朝飯といえば、駅の立ち食いか、コンビニのおにぎりを歩きながら齧るのが関の山だった。味なんて、ろくに覚えていない。それがどうだ。今は湯気の立つ一汁三菜を、腰を据えてゆっくり食っている。
贅沢とは、案外こういうことを言うのかもしれない。
それにしても、と思う。火加減も、水加減も、毎回どうしてこうも寸分違わず決まるのだろう。焦げもせず、芯も残らず、味噌汁の塩梅まで、いつも判で押したように同じなのだ。
「料理の腕が、上がったのかな」
言ってから、俺は苦笑した。
「……いや、さすがにそんなわけないか」
山暮らしを始めて、まだほんの何ヶ月かだ。腕が上がるには、いくらなんでも早すぎる。きっと、道具がいいのだろう。かまども、土鍋も、この澄んだ水も。いいものを使えば、仕事は勝手にうまくいく。昔から、そういうものだ。
◇◇◇
食い終えた茶碗を片づけようと、流しに立ったときだった。
視界の隅、台所の暗がりで、何か小さなものが、さっと動いた気がした。
ひとつではない。四つ。指の先ほどの小さな影が、湯気の名残の中を、ちょろりと横切ったような——。
俺は手を止めて、勢いよく振り返った。
けれど、そこには何もいない。煤けた柱と、朝の光の中を埃がゆっくり舞っているだけだ。
「……猫でも、住みついたか」
首をかしげて、俺は目をこすった。天井裏で鼠でも走ったのかもしれないし、寝起きの目が、埃の影をちらりと見間違えただけかもしれない。
「それとも、単なる目の疲れかな」
まあ、いい。害があるわけでもなし。俺はもう一度茶碗に向き直り、残っていた味噌汁を、ずずと飲みほした。
温かい。腹の底から、じんわりと温かい。この一杯があれば、今日も一日、機嫌よく働けそうだった。
◇◇◇
流しの下の暗がりで、四つの小さな光がぷるぷると身を寄せ合っていた。
「あっぶねー……いま完全に目、合ったよな?」
尻尾の先を火みたいにゆらしながら、赤いサラマンダー——エンが、ちろりと舌を出した。さっき火加減を締めたあと、うっかり湯気の中を横切ってしまったのだ。
「エンがはしゃぐからですわ。もう少しで見つかるところでしたのよ」
半透明のスイが、ぷりっと頬をふくらませる。まだ見つかっちゃいけない、というのは四匹の大事な約束だった。
「だってさ、あいつの飯、うまそうなんだもん! オレたちが火と水、ちょーっと手伝ってやってんのに、『腕が上がった』だってよ。ぷっ」
「あるじ、きづいてないねぇ」
コロがまんまるの目をぱちくりさせ、モクが腕を組んで「フン」と鼻を鳴らした。
「まあいい。……見つかるのは、まだ先だ」
誠には、声も姿も届かない。それでも四つの光は、片づけられていく茶碗を見送って、ちょっぴり誇らしげに、ぱちぱちと瞬いた。




