第76話
辺境の空から、その冬はじめての雪がちらついた朝だった。
ネル村に、冬が来た。
街道の終わりにへばりつくような、数十戸の小さな村。痩せた土地と森の魔獣に、長いあいだ痛めつけられてきたこの村にとって、冬という季節は、ずっと、死の別名だった。
行商のガロは、村外れの辻に立って、白いものが舞い落ちる灰色の空を見上げていた。
息を吐くと、それは白くほどけて消える。指先はもう、かじかんで感覚が遠い。毎年、この冷たさが忍び寄ってくるたびに、村じゅうの胸に、同じ暗い予感が広がるのだった。
——今年は、誰が越せるだろう。
ガロは、物心ついた頃から、そのことばかりを数えて生きてきた気がする。
この土地では、麦もろくに実らない。秋にどれだけ野菜を採っても、蓄える手立てがなかった。塩は貴重で、村までは滅多に回ってこない。塩がなければ、肉も魚も、漬けることも干すこともできない。
収穫したものは、秋のうちにあらかた腐った。
だから冬は、耐えるしかない季節だった。囲炉裏の火を細くして、痩せた根菜をすこしずつ齧って、ただ春が来るのを待つ。蓄えは日に日に減っていき、底が見えた家から順に、静かに弱っていく。
去年も、一昨年も、村は幾人かを見送った。
いちばん先に力を失うのは、決まって年寄りと、幼い子どもたちだった。頬のこけた小さな顔が、雪の日にひとつ、また春の手前でひとつと、消えていく。それが、この村の冬だった。
薬もない。医者もいない。あるのは、細くなっていく火と、底の見えはじめた甕だけ。
ガロは行商として、いくつもの村を巡ってきた。だが、街道の終わりに取り残されたこのネル村ほど、冬の重さに押し潰されそうな土地を、ほかに知らなかった。若い者は次々と街へ出ていき、残された者たちは、身を寄せ合って、ただ寒さに耐えるしかなかったのだ。
ガロは、辻の石の祠に、そっと目を落とした。
「……今年は」
こぼれた呟きは、白い息にまぎれて、すぐに冷たい空へ溶けていった。
◇◇◇
同じ頃、俺は薪ストーブの前で、心底くつろいでいた。
鋳鉄の天板が、じんわりと部屋を暖めている。窓の外は木枯らしが吹いて、山の木々をざわつかせているのに、この一部屋だけは、まるで別の季節みたいだ。空気そのものが、まあるく、やわらかい。
俺は皿の上の燻製を、一切れつまみ上げた。
先週、一斗缶で自作したスモーカーで、じっくり燻したベーコンだ。桜のチップの香りが芯まで染みて、飴色にてらてら光っている。噛むと、脂の甘みと燻香がじゅわりと広がって、思わず唸ってしまう。
「うん、我ながら、いい出来だ」
燗をつけた酒を、ちびりとやる。塩気の効いた燻製と、温めた酒。この組み合わせは、はっきり言って反則である。いくらでも杯が進んでしまう。
軒下には、味噌の樽が眠っている。納屋には、漬物も干物も干し芋も、ずらりと並んでいる。作りすぎたぶんは、いつものように直売所へ回した。
なんだか、いい冬になりそうな気がした。
「去年の今頃は、コンビニ弁当だったもんなあ」
しみじみと、そう思う。あの狭いワンルームの、味気ない蛍光灯。それに比べれば、今のこの暮らしは、我ながら上等すぎる。
◇◇◇
ネル村の冬は、けれど、去年までとは何もかもが違っていた。
ガロは、背負った大きな籠を、村の広場にそっと下ろした。
中には、辻の祠から今朝運んできた恵みが、ぎっしりと詰まっている。それを見ようと、寒さのなか、村人たちが次々に集まってきた。誰の顔にも、もう、あの暗い影はなかった。
ガロは、油紙にくるまれた塊を、ひとつ取り出した。
こっくりと色づいた、味噌という名の聖なる糧だ。ほんのひとさじ、湯に溶くだけで、身体の芯まで温まる汁になる。どれだけ寒い朝でも、これを啜ると、痩せた手足に力が戻ってくるのだった。
次に取り出したのは、樽に漬けられた瑞々しい菜だった。
冬の只中だというのに、みずみずしさを失わない。塩と、なにか得体の知れない知恵で漬けられたそれは、幾月経っても腐らず、噛めば爽やかな酸味と歯ごたえが、しなびた舌をよろこばせる。
干された魚もあった。燻された肉もあった。
どれもこれも、この村の誰ひとり、作り方を知らない品ばかりだ。腐らず、日持ちして、しかも滋味に満ちている。ひと冬ぶんの蓄えとして、これほど心強いものはなかった。
村の長老が、震える手で味噌の塊を押しいただいて、涙ぐんでいた。
「わしの、長い一生でも……こんな冬は、初めてじゃ」
ガロは、籠のなかみを、一軒ずつ、丁寧に配って回った。
どの家も、囲炉裏に鍋がかかり、湯気が立ちのぼっている。味噌の汁の匂いが、村じゅうの路地に満ちていた。ひもじさに強張っていた大人たちの肩が、ほどけていくのがわかる。
そして、子どもたちが、笑っていた。
去年の冬、頬をこけさせて、じっと火を見つめていた子らだ。その同じ子らが今、温かい汁で腹を満たして、雪の広場を、きゃっきゃと駆け回っている。追いかけっこをして、転んで、また笑って立ち上がる。
ガロは、その光景を、しばらく動けずに見つめていた。
村の帳簿を思い返す。蓄えの量を、頭のなかで数えてみる。何度数え直しても、答えは同じだった。
——足りる。この冬は、みんなの腹が、足りる。
この村の歴史で、一度もなかったことだ。ひとりも欠けずに、春を迎えられる。そう思った途端、ガロの胸に、熱いものがせり上がってきた。
気づけば、足が辻の祠へ向かっていた。
ガロは、雪の積もりはじめた地面に膝をつき、小さな石の祠の前で、深く頭を垂れた。組んだ手が、寒さのせいばかりでなく、震えている。
「祠の主さま」
声が、掠れた。
「祠の主さま……あなたのおかげで」
言葉が、うまく続かない。喉の奥が、熱く詰まる。ガロは、こみ上げるものを堪えきれずに、とうとう声をあげて泣いた。
「今年は……今年は、誰も、死なずにすみます」
どこの、どんなお方かも知らない。姿を見たことも、声を聞いたこともない。ただ、この祠を通して、絶えることなく恵みを授けてくださる、遠い、遠い主さま。
その方が、この村を、丸ごと救ってくださったのだ。
ガロは、頬を伝う涙を拭おうともせず、いつまでも、いつまでも、雪の祠に手を合わせていた。降りしきる白いものが、その丸めた背に、そっと積もっていった。
◇◇◇
その恵みを祠に置いた張本人は、山ひとつ向こうの、暖かい部屋にいた。
俺は燻製をもう一切れつまんで、燗酒の残りをくいと飲み干した。腹の底から、じんわりと温かい。
薪がぱちりと爆ぜて、火の粉が舞う。その火のそばで、なんだか小さな灯りが、四つばかり、機嫌よさそうに揺れている気がした。まあ、この頃はもう、見慣れた光景だ。
俺は、ぐるりと部屋を見回した。
暖かいストーブ。旨い酒と、自分で作った肴。軒下には味噌、納屋には保存食。冬ごもりの支度は、我ながら、完璧と言っていい。
「いい冬になりそうだなあ」
誰にともなく、そう呟いていた。
考えてみれば、この山に来てから、いいことばかりだ。畑はよく実り、直売所の常連さんは相変わらず律儀に通ってくれる。作りすぎた保存食も、出せば喜ばれて、あっという間に捌けていく。
「なんか、今年は特に、いいことばっかりだ」
俺は、ほう、と満ち足りた息をついた。
自分の暖かい部屋の、そのずっと向こうで、顔も知らない誰かが、雪の祠に手を合わせて泣いていることなど、俺は何ひとつ知らない。
ただ、いい冬になりそうだと、のんきに笑っているだけだった。




