第74話
初冬の空は、朝から高く澄んでいた。
畑仕事もひと段落した今日は、前から温めていた計画に手をつけることにした。物置の隅で埃をかぶっていた、空の一斗缶。あれを使って、燻製器を作るのだ。
保存食を仕込むうちに、どうしても試したくなっていた。漬けて、干して、その次は――燻す。冷蔵庫のなかった時代の人間が、なぜあれほど手間をかけて煙をくぐらせたのか。理屈は本で読んだ。あとは、自分の舌で確かめるだけだ。
「材料は、これでよし、と」
一斗缶の底に近い側面へ、電動ドリルで空気穴をいくつか開ける。上のほうには、拾ってきた太めの針金を渡して、食材をのせる網を二段。蓋のかわりに、麻袋を軽くかぶせて煙を逃がしすぎないようにする。
構造そのものは、拍子抜けするほど単純だった。要は、缶の底で燻煙材をいぶし、その煙を上の食材にじっくり当てる。ただの箱だ。それなのに、この単純な箱ひとつで食い物が化けるというのだから、先人の発明はあなどれない。
「難しく考えることないんだよな、こういうのは。箱と、網と、煙。それだけだ」
道具を並べ終えると、次は主役の登場である。
◇◇◇
燻煙材には、桜のチップを選んだ。庭の隅で剪定した枝を、細かく割って乾かしておいたものだ。桜は香りが強すぎず、肉にも魚にも合うと本に書いてあった。迷ったときは、素直に本の言うことを聞くに限る。
食材は、朝のうちに下ごしらえを済ませてある。塩漬けにして水気を拭いたベーコンのかたまり。ころんと切り分けたプロセスチーズ。半熟に茹でて、これも一晩だけ醤油に漬けた卵。それから、開いて干しておいた川魚が数尾。
網に間隔をあけて並べていくと、それだけでもう、うまそうだ。
「あるじ、あるじ! やっとオレの出番だな!?」
声のしたほうを見ると、一斗缶の口から赤い頭がひょこっと突き出していた。手のひら大の火のとかげ――エンが、尻尾の先の炎をぱちぱち跳ねさせて、目を輝かせている。
「そうだよ。今日はお前の腕が頼りだ。火を、強くしすぎちゃいけないんだ。じっくり、低い温度で煙を出す」
「まかせろって! こういう地味な火加減、オレ得意なんだぜ!」
得意げに胸を張るエンに、思わず苦笑した。焚き火をぼうぼう燃やすより、こういうとろ火のほうを得意と言い切るあたり、こいつも案外、職人肌なのかもしれない。
缶の底に炭を少しだけ熾し、その上に桜のチップをぱらりと落とす。すると、炎が上がるより先に、白い煙がほそぼそと立ちのぼりはじめた。
「そうそう、燃やすんじゃなくて、いぶすんだ。煙が命なんだよ、これは」
「わかってるって! ほら、見てろよ!」
エンが小さな手を、缶の底に向かってひらりと振る。
すると、炎が上がりかけていた炭が、すっと大人しくなった。かわりに、桜のチップからは絶えることなく、細く一定した煙が湧きつづける。強すぎず、消えもしない。ちょうどいいところで、火が踏みとどまっている。
「うわ、すごいな。これ、俺一人だと絶対こうはいかないぞ」
温度計を差し込んでみると、針は八十度そこそこで、ぴたりと落ち着いていた。狙いどおりの、理想的な燻し温度だ。本には「この温度を保つのが最大の難所」と書いてあったのに、その難所を、エンは鼻歌まじりで越えてしまっている。
◇◇◇
白い煙が、麻袋の隙間から糸のように立ちのぼっていく。
風向きが変わって煙が横へ流れかけると、エンがすいと手を返す。それだけで、煙はまた素直に上へと向きを戻し、缶のなかの食材を残らず包んでいく。まるで、煙そのものに手綱がついているみたいだった。
最初のうちは、生木を焚いたような、つんと青い匂いがしていた。それが小一時間もすると、香りが変わってくる。角の取れた、丸くて甘い、香ばしい匂い。かいでいるだけで、腹の底がぐうっと鳴るような匂いだ。
「いい匂いだろ、あるじ!」
「ああ。これはもう、匂いの時点で反則だな」
二時間ほど、じっくりと煙をくぐらせた。
頃合いを見て麻袋をめくると、缶のなかから、あたたかい香煙がふわりとあふれ出す。網の上の食材は、すっかり様変わりしていた。
白かったチーズは、角がとろりと溶けかけて、表面がつややかな飴色に染まっている。ベーコンは深い琥珀色をまとって、脂の縁がじんわり汗をかいている。醤油卵は艶やかな茶褐色に、川魚は皮が飴を塗ったように光っていた。
「……うわ。ぜんぶ、色からしてうまそうだ」
どれも、湯気とともに、あの甘く香ばしい匂いを立てている。
我慢できずに、まずチーズをひと切れ、指でつまんで口に放り込んだ。
外は燻香をまとって香ばしく、中はとろりと熱く柔らかい。噛むと、煙のかおりとチーズのこくが、じわりと舌の上でほどけていく。つづけてベーコンを薄く切って頬張ると、こちらは脂の甘みに燻煙の香りがみっしりと絡んで、旨みがぎゅっと凝縮している。噛むほどに、味が濃い。
「うわ、これは反則だ。燻製ってなんでこんなにうまいんだ。酒が止まらなくなるやつだ」
思わず、声が出た。
台所から冷やしておいた地酒を持ってきて、ひと口ふくむ。燻香の残る舌に、澄んだ酒がすっと通っていく。……これはいけない。肴と酒が、互いを呼び合ってしまう。永久機関だ。
「うまいか、あるじ!?」
「うますぎる。危険なくらいうまい。お前のおかげだよ、エン。この火加減がなきゃ、こうはならなかった」
「へへっ、だろ!?」
鼻の下をこすって、エンが誇らしげに炎を跳ねさせる。手柄を素直に喜ぶこいつを見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。
それにしても、と俺は琥珀色のベーコンを眺めた。塩をして、干して、燻して。ひと手間ごとに、ただの肉が、こんなに長持ちして、こんなにうまくなる。冷蔵庫のなかった昔の人は、生活の知恵として、こんなご馳走を編み出していたわけだ。頭が下がる。
◇◇◇
燻したものは、思ったよりずっと量ができた。一人で食べきるには、どう考えても多い。
こういうときの行き先は、もう決まっている。庭の隅の、無人直売所だ。
燻製を清潔な紙で包み、いくつか棚に並べていく。生鮮の野菜のあいだに、飴色の燻製が加わると、棚がずいぶんと賑やかになった。
棚を眺めていて、ふと思い出した。近ごろ、あの常連さんたちの好みに、はっきりした傾向があるのだ。
「保存が効くもの、乾いたもの、燻したものは、特にあの常連さんたちに喜ばれるみたいだ」
干し野菜も、漬物も、干物も、並べた翌朝にはきれいさっぱり消えている。とれたての瑞々しい野菜より、むしろ日持ちのするもののほうが、明らかに人気なのだ。
「なんでだろうな。生鮮より人気とは」
首をかしげる。都会のスーパーなら、迷わず新鮮なほうに手が伸びるだろうに。この直売所の客ときたら、まるで冬の蓄えでも増やすみたいに、日持ちするものばかりを大事に持って帰っていく。
「まあ、喜んでもらえるなら、なんでもいいか」
俺は棚に品書きを添えて、直売所をあとにした。作りすぎたものを、喜んで引き取ってくれる人がいる。それだけで、手間をかけた甲斐があるというものだ。
肩の上では、いつのまにか移ってきたエンが、まだ燻製の匂いをくんくんとかいでいる。
「なあ、あるじ。あれ、また作ろうぜ! オレ、また火加減やるからさ!」
「そうだな。次はソーセージも燻してみるか。……いや、その前に、酒の在庫を確認しないとな」
澄んだ初冬の空へ、直売所の煙のなごりが、細く一筋、立ちのぼっていた。




