第73話
朝の納屋は、しんと冷えていた。
息が白い。土間に据えた古い樽を覗き込むと、丹精してきたぬか床が、ふっくらと呼吸をしている。指を差し入れて底からかき混ぜると、ぬかの匂いが、つんと鼻の奥まで立ちのぼった。
毎日この一混ぜを欠かさずにいたら、いつのまにか手に馴染んでいた。最初は水っぽくて頼りなかった床が、今では角の立った、いい塩梅の手触りになっている。
「発酵ってのは、育てる感覚に近いな。放っておくと拗ねるし、構いすぎても駄目になる」
なんだか、生き物を飼っているみたいだ。名前でもつけたくなるが、ぬか床に名前をつける三十路手前の男というのも、我ながらどうかと思う。
昨日抜いてきた大根と白菜を、板の上に並べる。大根は洗って半日干し、しんなりさせてから床へ。白菜は塩を振って重石をかけ、一度水を上げてから漬け込む。ひと手間かけるほど、あとで返ってくる味が違う。
葉のあいだに塩を擦り込みながら、俺はふと手を止めた。
「冷蔵庫もない時代に、よくこんな知恵を編み出したもんだよなあ」
塩と、ぬかと、重石と、時間。それだけで、冬のあいだじゅう野菜を食いつなぐ。先人ってのは、つくづく偉い。
◇◇◇
漬物を仕込み終えると、次は魚だ。
麓の集落で分けてもらった鯵を、まな板に載せる。腹に包丁を入れ、背骨に沿って開いていく。血合いを洗い、薄い塩水にくぐらせて、笊にずらりと並べていく。
これを軒下に吊るして、風と陽に当てれば干物になる。ひと晩でうっすら飴色に乾いて、旨みが凝縮するのだ。焼いたときの、あの香ばしさを思うと、今からもう腹が鳴る。
笊を軒に運ぶと、水場のほうで、ぷかりと涼しげな気配が揺れた。
水盆の縁で、スイが半透明の体をぷるんと波打たせている。冷えた朝の光を吸って、まるで薄氷みたいに澄んでいた。
「あるじ。その樽、わたくしにお任せくださいまし」
「ん? ぬか床か。まだ触ってないぞ、これ」
「よからぬものが、混じらぬように。……ほんの、ひと撫でですわ」
言うが早いか、スイはとろりと水盆を離れ、樽の縁をひとまわり、するりと撫でていった。透きとおった雫が、ぬかの表面にきらきらと落ちる。
すると、どうしたことか。いつもより床の匂いがまろやかになって、雑菌の饐えた気配がふっと消えたように感じた。
「お前がいると、漬物の失敗が減る気がするんだよなあ。気のせいか?」
「ふふ。あるじの、手がよいのですわ」
澄まして、スイがそう返す。手柄はぜんぶこっちに押しつけてくるあたり、相変わらず律儀な居候だ。まあ、水がうまいと何もかもうまくなるのは、俺もとっくに知っている。
◇◇◇
昼を過ぎる頃には、納屋がすっかり冬の色になっていた。
漬物樽が二つ、干し大根が縄暖簾みたいに垂れ、軒には鯵の開きがずらり。並べて眺めると、我ながら、ちょっとした保存食の問屋みたいだ。
……一人分にしては、どう見ても作りすぎた。
毎度のことながら、手を動かしていると量の加減を忘れる。まあ、放っておいても余るだけだ。俺はいつものように、余った漬物と干物を、庭の隅の直売所へ運んで並べた。
「ご自由にどうぞ、っと。奇特な常連さん、今日も来るかな」
板きれに品書きを添えて、料金箱を置く。こんな山奥まで、律儀に対価を置いていく物好きがいるのだから、世の中は面白い。冷える前に納屋へ戻って、俺は湯を沸かしにかかった。
◇◇◇
翌朝。
顔を洗いに出た俺は、直売所の前で、思わず足を止めた。
昨日並べた漬物も干物も、きれいさっぱり消えている。それはいい。いつものことだ。問題は、そのあとに置かれていたものだった。
料金箱のわきに、金貨が幾枚も、寸分の狂いもなく縦に積まれている。そのとなりには、上等な毛皮が畳んで供えられ、色づいた木の実まで、几帳面に隅へ寄せてある。
まるで、神棚の前に整えた供物みたいだ。
しかも、だ。毛皮の上には、見慣れない文字で綴られた紙が一枚、うやうやしく載せられていた。折り目まできっちり揃った、明らかに丁重な手紙である。
「……なんか」
俺は紙をつまみ上げ、朝日にかざしてみた。読めはしないが、一文字ずつ、拝むように書かれているのだけは、なぜか伝わってくる。
「拝まれてる気がするんだよな、最近。気のせいか?」
首をひねりながら、俺は紙をそっと元へ戻した。
外国の行商人か何かが、律儀な人だったのだろう。たかが田舎の漬物と干物に、そこまでかしこまらなくてもいいのに。
白い息を吐きながら、俺は缶を元の位置に据え直した。まあ、いいか。ありがたく頂戴して、また明日も、せいぜい多めに漬けておこう。




