第72話
軒下の甕から、ひと晩水に浸けておいた大豆を引き上げる。
朝いちばんの冷たい水の中で、豆はまるく、つやつやと太っていた。昨夜はしわの寄った硬い粒だったのに、ひと晩水に働いてもらうだけで、こんなに素直にふくらむのだから、豆というのは律儀なものだ。
指でつまむと、皮がぴんと張って、いまにも弾けそうだ。よし、いい戻り具合だ。
「さて、今日は一日、味噌の仕込みといくか」
誰にともなく言って、俺は袖をまくった。冬支度も、暖房の次はいよいよ食い物だ。雪で麓に下りられない日もあるだろうし、蓄えは多いに越したことはない。
戻した豆を大鍋にあけて、薪ストーブの天板にかける。据えたばかりのこいつは、朝から機嫌よく燃えていて、鍋を乗せておくだけで、ことこと湯が沸きはじめる。暖をとるついでに豆まで煮えるのだから、我ながらいい相棒を手に入れたものだ。
あとは、ひたすら待つ。指でつまんで、力を入れずにすっと潰れるくらいまで。
沸いてしばらくすると、台所いっぱいに、ほくほくと甘い豆の匂いが立ちこめてきた。この匂いを嗅いでいるだけで、もう腹の底があたたかくなる。
◇◇◇
半日ちかく煮て、ようやく豆がやわらかくなった。ひと粒つまんで指で押すと、抵抗なく、むにゅりと潰れる。合格だ。
熱いうちが勝負、と料理本にある。俺は湯を切った豆を厚手の袋に移し、まだ湯気の立つそれを、上から体重をかけて潰していった。
掌の下で、豆がぷちぷちと音を立てて、なめらかな餡みたいに変わっていく。指のあいだからにゅっとはみ出す感触が、妙にくせになる。行儀は悪いが、この一体感がたまらない。
粗熱がとれたら、別のたらいで麹と塩をさっくり合わせておく。米麹の、ほんのり栗みたいな甘い匂いが、ふわりと立った。
そこへ潰した豆を加えて、今度は全体をよくよく練り合わせる。硬ければ、とっておいた煮汁を少し戻して、耳たぶくらいのやわらかさに整えていく。
冷たい塩と、あたたかい豆と、甘い麹。ばらばらだったものが、手のなかで少しずつひとつになっていった。
「発酵食品って、要は時間に働いてもらう料理だよな」
手を動かしながら、俺はひとりごちた。
「仕込んだら、あとは待つだけ。気の長い話だけど、こういうの、嫌いじゃない」
手をかけるのは今日いちにち。あとの半年は、時間がぜんぶやってくれる。せっかちだった昔の俺なら、じれったくてたまらなかっただろうに、いまはこの気長さが、なんとも心地いい。
◇◇◇
練り上げた味噌を、両手で握って、味噌玉くらいの大きさに丸めていく。
それを、消毒した樽の底へ、下から順に、叩きつけるように詰める。乱暴なようだが、こうして隙間の空気を抜いてやるのが、かびを寄せつけないコツなのだそうだ。
ぺたん、ぺたん、と小気味いい音が土間に響く。
ふと気づくと、樽のふちに、コロがちょこんと寄り添っていた。両手大の苔玉が、まんまるの目で、詰まっていく味噌をじっと見下ろしている。
「おいしくなあれ、なの」
小さな声でそう唱えて、コロは樽にそっと体をすりよせた。
どうやら、発酵を後押ししてくれているつもりらしい。土と実りのことなら任せろ、というこいつが言うのだから、この豆たちも、さぞ機嫌よく育つに違いない。
「ああ、うまくなれよ。頼んだぞ、コロ」
声をかけると、コロは得意げに、ふるんと身を震わせた。
詰め終えたら、表面を平らにならして、ふちの汚れをきれいに拭う。仕上げに塩をひとつまみ、雪みたいに振っておく。ここにかびを来させない、最後のひと手間だ。
一人で食うには、いかにも多い。まあ、余ったら、いつもの直売所にでも出せばいい。こんな山奥の手前味噌を、もらってくれる物好きがいればの話だけど。
最後に、味噌の上へ落とし蓋を乗せ、その上から、庭で拾ってきた手ごろな石を、ずしりと重石にした。
石の重みで、じわじわと水が上がり、味噌をかびから守ってくれる。あとはもう、涼しい納屋の隅で、じっと寝かせておくだけだ。
樽の蓋を閉じて、俺はひとつ、大きく伸びをした。
「これが食べ頃になるのは……来年か」
仕込んだばかりの樽を、ぽんと手のひらで叩く。
「気の長い楽しみが、できたな」
肩によじ登ってきたコロが、そうだよぉ、とでも言うように、ふるりと揺れた。来年の食卓に、ひとつ約束を仕込んだような気分だ。俺は樽をもう一度なでて、納屋の戸を、そっと閉めた。




