第70話
据えつけたばかりの薪ストーブは、朝の土間でひっそりと黒光りしていた。
鋳鉄の胴は、まだひんやりと冷たい。指で叩くと、こつん、と芯の詰まった重い音が返ってくる。鉄本さんが丹精した一台が、いよいよ火を待っている。
外は、冷えこんだ初冬の朝だ。障子の隙間から入る空気が、肌をちりちり刺してくる。この家の寒さには、ここのところすっかり閉口していた。
「よし。……いよいよ、火入れだ」
俺は焚きつけの細い薪を井桁に組み、その下に丸めた新聞紙を差しこんだ。マッチを擦って、紙の端にそっと火を移す。
橙色の小さな炎が、紙をなめるように這いあがった。焚きつけにぱちりと燃えうつり、細い薪の角が赤く縁どられていく。
やがて、太い薪の一本が、ぼっと音を立てて火を抱いた。
初めての火入れなんて、もっと手こずるものだと覚悟していた。煙が逆流したり、途中で立ち消えたりするものだと。それが、拍子抜けするほど素直に燃えあがっていく。
「さすが、いい仕事してる。煙突の抜けが違うんだな、これ」
鉄本さんの腕はやっぱり本物だ、と俺は感心した。道具がいいと、こうも仕事が早い。
◇◇◇
薪が、ぱちり、ぱちりと小気味よく爆ぜはじめた。
炎が扉のガラス窓の向こうで、生き物みたいにゆらゆら揺れている。俺はしゃがみこんで、しばらくその赤い踊りに見入っていた。
その炎の芯で、赤いとかげが手足を広げて、くるくると回っていた。エンだ。手のひら大のサラマンダーが、火のいちばん熱いところで、心底うれしそうに身をよじっている。
「あるじ、火が入ったぜ! あったかい火だ、最高の火だ!」
「気に入ったか。お前の新しい遊び場だぞ、そこ」
「サイコーだぜ! ここ、ずっといるからな、オレ!」
尻尾の火を跳ねさせて、エンが炎ごとぱちぱちと笑う。火のそばがいちばん好きなこいつには、たまらない場所ができたらしい。
鋳鉄が、じわじわと熱を帯びていくのが分かった。手をかざすと、胴のあたりから、やわらかな熱がゆっくりと押し寄せてくる。
乾いた薪の、香ばしくて、どこか甘い匂いが、部屋にふわりと満ちていく。鼻の奥をくすぐる、焚き火にも似た、なつかしい煙の香りだ。
ぱちぱち、ぴしっ、と薪の爆ぜる音が、しんとした家の中に規則正しく響く。何を急かすでもない、耳にやさしい音だった。
そして、鉄そのものがふくよかに放つ、まろやかな熱。ストーブの前に手をかざすと、じりじりと熱いくらいなのに、その熱がすっと肌にしみこんでくる。
それが少しずつ、土間から、板の間から、家じゅうにしみ渡っていく。冷えきっていた古民家が、芯からじんわりと、ほどけるようにあたたまっていった。壁も、柱も、床も、家そのものが熱を蓄えて、まるくやわらいでいくのが分かる。
エアコンをつけたときの、あの表面だけ撫でていく風とは、まるで違う。
「……あったかい。エアコンの風とは、全然違う。空気そのものが、優しくなる感じだ」
思わず、声に出していた。
肩から力が抜けて、こわばっていた背中が、ゆっくりゆるんでいく。この家に来てから、寒さに首をすくめて過ごしていた分だけ、その熱がしみた。
◇◇◇
気づくと、ストーブのまわりに、小さな気配がいくつも集まってきていた。
肩に乗ってきたコロが、あたたかさに目を細めて「ぽかぽかなの……」とうっとりしている。水盆のスイは、湯気の立つ縁でぷかぷかと機嫌よく、モクは天板のそばで腕を組み、この鉄の出来映えを渋い顔で検分していた。
家のあちこちで瞬いていた名もない光たちも、いつのまにか、そろりそろりと熱の輪に寄ってきている。
みんな、この暖かさに引き寄せられてきたらしい。ストーブひとつを囲んで、精霊たちが思い思いにくつろいでいる。
俺はその真ん中で、あぐらをかいて、鉄の胴から放たれる熱に手をかざした。
窓の外は、じきに雪も降ろうという初冬の空だ。けれどこの部屋の中は、もう寒くない。薪さえ絶やさなければ、この熱は夜通し、家を守ってくれる。
「これで、冬を越せる。……なんとかなりそうだな」
しみじみと、心の底から安堵がわいた。
初めてこの山で越す冬を、俺はどこかで、少しだけ心細く思っていたのだ。それが、ぱちりと爆ぜる薪の音を聞いていると、不思議とすっかり溶けていく。
エンが炎の中でひときわ大きく踊って、火の粉をちろりと跳ねさせた。
俺はもう一本、薪を足してやる。橙色の熱に包まれた部屋で、賑やかな相棒たちと、初冬の一日が、ゆっくりと暮れていった。




