第66話
軽トラで県境をいくつか越えて、俺は朝から半日、山道を走り続けていた。
久しぶりの遠出だ。留守番を頼んできた家のことがちらりと気になったが、まあ大丈夫だろう。あいつらに任せておけば、火の始末も水回りも、なぜだかいつも滞りなく収まっている。
窓を開けて走ると、風がもう秋の匂いだった。稲刈りを終えた田んぼが金色の切り株を並べ、山の縁がうっすらと色づき始めている。信号もコンビニもない道を、ラジオだけを連れに、俺はのんびりハンドルを握っていた。こういう時間が、前の暮らしには一秒もなかったな、とふと思う。
助手席には、森野さんから預かった紹介状が一通。上等な和紙を折っただけの、飾り気のない代物だ。ただの添え書きにしては、やけに手触りがいい。
鉄のものを打たせたら右に出る者はいない、と森野さんは言っていた。ずいぶんな言いようだと思ったが、あの人が誰かをそこまで持ち上げるのは珍しい。それだけの職人なんだろう、と俺は素直に受け取っていた。
カーナビが「目的地周辺です」と告げたのは、杉木立の途切れた、谷あいの一角だった。
降りた瞬間、空気が違った。
ひやりと澄んだ秋の山気に、鉄と焦げのにおいが混じっている。奥のほうから、規則正しい音が響いてきた。かん、かん、と、金属を叩く澄んだ音だ。高く、まっすぐで、聞いているだけで背筋が伸びる。
「……ここで、間違いないな」
石造りの古い工房から、外まで熱気が漏れ出していた。近づくにつれ、その熱がはっきりと肌を押してくる。秋だというのに、額にじわりと汗がにじんだ。
軒下には、打ち上がった鉄の品がずらりと並べてある。無骨な火ばさみ、鍋の五徳、ぶ厚い鉄板。どれも余計な飾りがなく、ただ頑丈で、道具として気持ちがいい形をしていた。俺は思わず、そのひとつに手を伸ばしかけて、引っ込めた。勝手に触るのは、職人に失礼だ。
◇◇◇
入り口をくぐって、俺は思わず足を止めた。
正面で、炉が真っ赤に燃えていた。ただの赤じゃない。芯まで白く透きとおるような、恐ろしく深い赤だ。その熱が壁を舐め、天井の梁まで飴色に焼いている。
炉のそばに、男が一人。
背は、俺より頭ひとつ低い。だが、低いぶんを全部横に足したような体だった。肩も腕も丸太みたいに太く、革の前掛けの下で、筋肉が岩のように盛り上がっている。豊かな髭が胸元まで垂れ、その奥の目だけが、炎を映して鋭く光っていた。
男は真っ赤に灼けた鉄の塊を、素手同然の分厚い手で難なく押さえ、鎚を振り下ろしていた。火花が、線香花火みたいに派手に散る。
その一打ごとに、さっきの澄んだ音が鳴る。仕事の音、というより、もっと気持ちのいい、澄み切った音だった。
しばらく、俺は声もかけられずに見入っていた。声をかけるのが、なんだかもったいなかったのだ。
鉄が、赤から橙へ、橙から鈍い色へと表情を変えていく。男はその移ろいを、まるで会話でもするみたいに見つめ、頃合いを計って炉へ戻す。無駄な動きが、ひとつもなかった。
◇◇◇
やがて男は鎚を置き、こちらをじろりと見た。
上から下まで、値踏みするように。それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「森野の紹介か」
低く、腹に響く声だった。俺がうなずくと、男は前掛けで手を拭きながら、無遠慮に間合いを詰めてくる。
「……で、あんた、何しに来た。うちは冷やかしお断りだぜ」
豪快、というか、無骨というか。挨拶もそこそこに、いきなりこれだ。値踏みされるのには慣れているつもりだったが、この人の目つきは、値札より中身をまっすぐ覗き込んでくる感じがした。
俺は思わず、預かってきた紹介状を握り直した。森野さんは「少し変わり者ですが」と苦笑していたが、なるほど、たしかにとっつきは悪い。
もっとも――こういう、腕一本でまっすぐ生きてきた職人が、根っこで悪い人だったためしはない。少なくとも、俺の狭い経験では、そうだった。
俺は背筋を伸ばして、まっすぐ男の目を見返した。
「冷やかしじゃありません。冬を越すのに、いいストーブが要るんです。――鉄本さんの、いちばんいいやつを」
言ってしまってから、我ながら図々しいなと思った。
男は、しばらく無言だった。炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜる。
その口の端が、ほんのわずかに、上がった気がした。




