第62話
朝の山は、日ごとに冷たくなっていく。吐く息がうっすら白く見えるようになったのは、つい先週からだ。
俺は軒下に積んだ丸太を前に、腕まくりをした。前の持ち主が切り倒したまま放っておいたらしい太い幹を、先日ようやく玉切りにして、輪切りの塊が地面にごろごろ転がっている。これを割って、冬の薪にする。今日はそういう一日だ。
斧を手に取り、丸太を一本、割り台の上に据える。
「さて、初めての薪割りだ。……見様見真似だけど、まあ、なんとかなるだろ」
狙うのは、木口の、節を避けた素直なところ。動画で予習した通り、足を軽く開いて、斧を高く振りかぶる。息を止めて、丸太のいちばん向こう側を見るつもりで、振り下ろす。
かこん、と乾いた音がした。
その瞬間、手のひらに軽い衝撃が抜けて、丸太がぱっくりと真っ二つに割れた。断面から、樹の匂いが立ちのぼる。青くて、少し甘い、生きていた木の匂いだ。
「おお……気持ちいいな、これ」
思わず声が出た。狙ったところに刃が食い込んで、木の繊維がめりっと裂けて、あとは重さにまかせて開いていく。あの一連の手応えが、指の先から背中まで、すうっと通り抜けていく。
二本目。三本目。だんだん、コツがつかめてくる。
節のある頑固なやつは、無理に真ん中を狙わず、縁のほうを少しずつ削るように割る。要は、素直な目のところから攻めればいい。木にも、通りやすい道理みたいなものがあるらしい。
割った薪を、軒下に井桁に組んで積んでいく。一本、また一本。かこん、かこん、と音が続くたびに、薪の山が着実に高くなっていく。
これが、たまらない。
「ノコギリで切った分だけ木が短くなる、あの感じと同じだ。割った分だけ、薪が積まれる。……これだよ、これ」
画面の中の数字がいくら増えても、あんなに虚しかったのに。目の前で薪が積み上がっていくと、こんなに満たされる。手を動かした分だけ、確かなものが目の前に残る。俺はたぶん、ずっとこれに飢えていたんだと思う。
◇◇◇
昼を過ぎると、汗が湯気になって背中から立ちのぼった。
俺は割った薪の切れ端を集めて、庭先に小さな焚き火をこしらえた。そのそばで、エンがご機嫌に踊っている。手のひら大の赤いサラマンダーが、炎のなかでくるくる回るたびに、火の粉がぱちぱちと跳ねた。
「あるじ、いい薪だぜ! よく乾いてる、いい火になるぞ!」
「そりゃどうも。お前が言うなら間違いないな」
火の精霊のお墨付きなら、俺の薪割りも及第点らしい。エンは焚き火のなかで手足を伸ばして、心底うれしそうだ。
焚き火が落ち着くのを横目に、俺は熊手を持って庭に出た。
いつの間にか、庭じゅうが落ち葉で埋まっている。赤、黄、茶。木々が冬支度に脱ぎ捨てた葉っぱを、かさかさとかき集めていく。乾いた葉を踏むと、足の裏でさくさくと小気味いい音がした。
集めた落ち葉は、畑の隅の枠に放り込む。放っておけば、来年にはいい腐葉土になる。捨てるところが、何ひとつない。
それから、庭木の冬囲い。細い枝を縄で束ね、雪の重みで折れないように支柱を立ててやる。縄をぐるりと回して、きゅっと締める。この、締めた縄が指に食い込む感触も、悪くない。
「よし、これで冬が来ても、お前は大丈夫だ」
言い聞かせるように、俺は木の幹を軽く叩いた。返事はないが、まあ、気は心だ。
◇◇◇
日が落ちると、山の冷え込みは一気に増した。
薪割りで火照った体も、すっかり落ち着いている。俺は夕飯を済ませ、囲炉裏の火にあたりながら、割ったばかりの薪の匂いを楽しんでいた。今日は、よく働いた。
ところが、ふと足元が、すうすうと寒い。
どこからか、細く冷たい風が忍び込んでくる。障子の桟のすき間、床板のわずかな継ぎ目。しんしんと、山の冷気が家のなかへ流れ込んでくるのだ。囲炉裏のそばですら、背中のほうがひやりとする。
「……うわ、この家、思った以上に寒いぞ」
俺は思わず身をすくめた。夏はあれほど風通しがよくてありがたかったのに、その同じすき間が、冬はまるっきり裏目に出る。障子と土壁だけじゃ、この山の冬は、どう考えても越せない。
囲炉裏の火を見つめて、俺は腕を組んだ。
「本格的なストーブか、薪ストーブが要るな」
せっかく薪はこれだけ割ったんだ。その薪を、囲炉裏でちびちび燃やすだけじゃもったいない。家じゅうを芯から暖めてくれる、頼れる一台が欲しい。
冬支度の宿題が、またひとつ増えた。けれど不思議と、気は重くない。むしろ、次にやることが見えて、少しわくわくしている。
エンが囲炉裏の火のなかで、そうこなくちゃ、とでも言いたげに、ぱちりと跳ねた。




