第60話
日が落ちても、盛夏の山は昼のぬくもりを手放さない。
俺は縁側に腰を下ろして、団扇をゆるく動かしていた。庭の闇の向こうで、虫の声がしんしんと湧いている。昼のあいだ木々に溜め込まれた熱が、夜風に少しずつほどけていく時間だ。
膝の上では、コロがまるくなっている。両手に乗るくらいのモフモフした苔玉が、うとうとと目を細め、俺の膝を布団がわりにしていた。畑仕事で土をいじった一日が、よほど満足だったらしい。
「あるじの膝、あったかいの……」
寝ぼけた声でそう言って、コロはまた目を閉じる。土いじりのあとのこいつは、いつもこうしてぐったり甘えてくる。
縁側の端に置いた水盆では、スイがぷかぷか浮いていた。半透明のスライムが、水面に星明かりを映して、涼しげにゆれている。
「今宵の水は、格別ですわ。あるじも、手を浸けてごらんなさいまし」
言われるまま、俺は盆の水に指を沈めた。夜になってもぬるまない、井戸のいちばん奥みたいな冷たさが、指先からすっと上ってくる。汗ばんでいた腕の熱が、そこからじんわりと逃げていった。
「ほんとだ。氷でも入れたみたいだな、これ」
「ふふ。わたくしの、腕の見せどころですわ」
得意げに、スイがひときわ大きく波打った。この涼しさが自分の仕事だと、ちゃんと胸を張るところが、こいつのかわいいところだ。
盆のわきには、昼に冷やしておいた麦茶の徳利を置いてある。ひと口ふくむと、これがまた、驚くほど澄んで甘い。スイが浄めた水で淹れるようになってから、同じ茶葉なのに、まるで別の飲み物みたいな味になった。
「この麦茶、店で出せるぞ、ほんと」
「あるじの手が、いいのですわ」
澄まして、スイがそう返す。手柄はぜんぶ俺のもの、という顔をされると、こっちが照れる。
◇◇◇
庭先には、小さな焚き火をこしらえてある。
蚊遣りがわりの、ささやかな炎。その真ん中で、エンが手足を広げて寝転がっていた。手のひら大の赤いサラマンダーが、火の中でごろごろと機嫌よく転がっている。
「なあなあ、あるじ! なんか焼こうぜ、なんか!」
「もう飯は食っただろ。腹に入るのか、まだ」
「マシュマロは別腹だぜ!」
わんぱくな声で、エンが尻尾の火をぱちぱち跳ねさせる。こいつの胃袋がどこにあるのか、俺はいまだに知らない。まあ、火の精霊に消化器官の話をしても始まらないだろう。
仕方なく、俺は台所から袋を取ってきて、串に刺したマシュマロを火にかざしてやった。エンが目を輝かせて、炎をふわりとやわらげる。表面だけがきつね色に、中はとろりと。狙ったみたいに理想的な焼き加減になった。
「うまそーだな! 半分こな、あるじ!」
「お前、食えるのかそれ」
「気持ちだけ、もらうぜ」
軒下の作業台の上では、モクが腕を組んで座っていた。葉っぱの羽を持つムササビが、渋い顔でこちらを見下ろしている。昼間に組んだ増設の棚を、まだ検分しているらしい。
「フン。今日の継ぎ手、悪くなかったな」
「お、珍しく褒めるじゃないか」
「褒めてはいない。悪くなかった、と言っただけだ。……まあ、丸ノコの直線は、相変わらず見事だがな」
結局こいつは、俺より電動工具を信頼している。職人肌のくせに文明の利器にめっぽう弱いのが、なんとも憎めない。
「なあ、モク。棚がひとつ増えたら、明日はもう一段、屋根を伸ばそうと思うんだ」
「フン。材の木取りは、こっちで見ておいてやる。……お前の墨付けは、たまに詰めが甘い」
「手厳しいな、相棒は」
言いながらも、こいつが手を貸してくれるのは、もう分かっている。口は渋いが、仕事には誰よりまっすぐな職人だ。俺はひとりで抱え込まずにすむこの頼もしさに、この頃すっかり甘えている。
◇◇◇
膝にコロ、水盆にスイ、焚き火にエン、作業台にモク。
団扇の風に虫の声を混ぜながら、俺はぼんやりと、この賑やかな縁側を見渡した。
……思えば、妙なものだ。
俺がこの山に来たのは、人が嫌になったからだった。着信音も、会議も、すれ違う誰かの機嫌をうかがう気疲れも、全部から離れたかった。独りになりたくて、誰の顔も見なくていい場所を探して、貯金を全部はたいて、こんな山奥まで逃げてきた。
都会にいた頃の俺は、たぶん、笑い方をどこかに忘れていた。人の輪の真ん中にいても、いつも独りぼっちみたいな顔をしていた。
それが、どうだ。
膝には寝ぼけた苔玉が甘えて、盆の水は涼を張って、庭では火のとかげがマシュマロをねだり、軒下の職人は今日も憎まれ口を叩いている。逃げてきたはずの山に、いつのまにか、こんなに賑やかで、あたたかい暮らしがある。
ほんの数ヶ月前の俺に見せてやったら、なんと言うだろう。おおかた、疲れて幻でも見たのかと、自分の正気を疑うに違いない。
「一人じゃ、なくなったな……」
しみじみと、声に出していた。
その瞬間、四つの気配が、ぴたりと動きを止めた。
膝のコロが顔を上げ、盆のスイがこちらを向き、火のエンが飛び起き、作業台のモクが腕をほどく。四匹そろって、心配そうに俺の顔をのぞきこんでくる。
「あるじ……?」
「どこか、痛いんですの?」
「元気ないぞ、あるじ!」
「フン。腹でも壊したか」
つぶらな目が四つ、俺の鼻先にずらりと並ぶ。あんまり真剣に案じてくるものだから、俺は思わず、ふきだしてしまった。
「なんでもないよ。ほんと、なんでもない」
笑いながら、俺はコロの頭を指でそっと撫でた。
「ありがとうな、みんな」
なにが「ありがとう」なのか、こいつらにはうまく伝わらなかったらしい。四匹は顔を見合わせて、きょとんと首をかしげている。それでいい。伝わらなくても、この気持ちだけは、たしかにここにある。
考えてみれば、こいつらは俺が住まわせてもらっているお礼に、ずっと暮らしを手伝ってくれているだけなのだ。火加減も、水の涼も、畑の実りも、棚の出来も。律儀な居候たちに、こんなに手厚くもてなされて、逆に申し訳ないくらいである。
まあ、持ちつ持たれつ、というやつだろう。俺は勝手にそう納得して、また団扇をあおいだ。
◇◇◇
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
膝のコロは、いつのまにかまた寝入っている。スイは盆でうたたね、エンは火の中でまんぞくげに伸び、モクは棚のことをまだぶつぶつ言っている。虫の声が、山ぜんたいを静かに包んでいた。
この静けさの中でふと、俺は昼間の森野さんの言葉を思い出した。
増設の材を届けに来てくれた、あの人。木のことなら何でも知っていて、山の気配にやたら通じている、不思議な製材所の主。帰り際に、あの人は穏やかにこう言ったのだ。
——あなたに、紹介したい人がいるんです。たぶん、あなたと、すごく気が合う。鉄を打つ、頑固な男でね。
鉄を打つ頑固者、か。
俺は夜空を見上げて、口の端をゆるめた。星が、都会では考えられないほど、びっしりと空を埋めている。
「この山に来てから、いい出会いばっかりだ」
精霊に、森野さんに。ほんの数ヶ月前は、人の顔を見るのも億劫だったのに。逃げ込んだ先で、こんなにいい縁ばかり拾うのだから、人生わからないものだ。
「次は、鉄を打つ頑固者、か」
どんな人だろうな、と俺は独りごちる。
やがて秋が来て、冬が来る。この山で初めて越す、本格的な冬だ。薪を割って、火を焚いて、備えを固める季節が、すぐそこまで来ている。頑固な鍛冶屋というのが、その支度に、なにか力を貸してくれるのかもしれない。
膝のコロが、寝がえりをうって、俺の腹に額をすりよせた。
俺はその小さなあたたかさを手のひらで受けとめて、もうしばらく、賑やかな相棒たちと、盛夏の夜風の中にいた。
明日が、少しだけ、楽しみだった。
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あとがき
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