第59話
森野さんがまた山に寄ってくれたのは、それから数日後の、夕方だった。
谷向こうの仕事の帰りだという。増設した直売所の出来を見たいと言うので、俺は喜んで案内した。日に焼けはじめた杉板を、森野さんは手のひらでそっと撫でる。
「いい仕事だ。……木も、喜んでますよ」
木が喜ぶ、なんて言い方をするのは、この人くらいだ。でも不思議と、大げさには聞こえない。森野さんの口から出ると、それがごく当たり前の事実みたいに響く。
肩の上では、コロがうとうと船を漕いでいる。スイは軒下の水盆から、じっとお客さんを見上げていた。
「……このひと、やっぱり、いいにおいなの」
半分眠ったまま、コロがつぶやく。精霊たちは、この人のそばだと、やけに落ち着いている。作業台のモクでさえ、腕を組んだまま、追い払いもせず目を閉じていた。
森野さんは、そんな一匹一匹を、犬か猫でも見るようなまなざしで眺めていく。そうして、増設した棚のこと、これから継ぎ足したい庇のこと、乾かしておくべき木の見分け方を、俺にひとつずつ教えてくれた。
この人の話は、いつも山の巡りとひとつながりになっている。木を伐る時期も、水の道も、風の抜け方も、全部が地続きなのだ。聞いているだけで、俺のせわしない頭が、じんわりほぐれていく。
◇◇◇
ひとしきり話し込むうち、山の稜線に日が傾いていった。
盛夏の夕暮れは、名残おしいほど長い。オレンジ色の光が、杉木立のあいだをまっすぐ縫って、庭いっぱいに差してくる。
森野さんが、そろそろ、と腰を上げた。軽トラのドアに手をかけて、ふと山のほうを振り返る。
ちょうど、その顔が夕日の逆光になった。
――そのとき、俺は妙な感覚にとらわれた。
金色にふちどられた森野さんの耳の先が、いつもより少しだけ、すっと尖って見えた気がした。梢のざわめきに、彼が声もなく応えているような。足もとの草も、渡る風も、この人のことを昔からよく知っている——うまく言葉にならない、そんな気配。
樹齢を重ねた大木の前に立ったときの、あの静かな圧に、どこか似ていた。
まばたきをすると、そこにはもう、いつもの穏やかな森野さんが立っているだけだった。夕日が、ただ木立の向こうへ沈もうとしている。それだけのことだ。
「……森野さん、どうかしました?」
「いえ。いい夕日だ、と思って」
俺は首の後ろをかいた。今のは、なんだったんだろう。夕日のいたずらか、それとも、板の削りすぎで目が疲れたか。
「森野さんって、なんというか……浮世離れしてるよなあ」
思わず口をついて出て、あわてて言い足す。
「あ、悪口じゃないですよ。落ち着いてるっていうか、こう、山と同じ時間で生きてる感じで」
まあ、細かいことはいい。悪い人じゃ絶対ないし、木の目利きは山ひとつぶんくらい信用できる。それで十分じゃないか。
肩のコロが「んー」と寝ぼけた声をもらす。それを聞いて、森野さんはやわらかく笑った。
◇◇◇
エンジンをかけて、森野さんが窓を下ろした。
「そうだ、結城さん。……あなたに、紹介したい人がいるんです」
「紹介、ですか」
「ええ。たぶん、あなたと、すごく気が合う」
夕日を背にした横顔が、少しだけ悪戯っぽくほころんだ。
「鉄を打つ、頑固な男でね。口は悪いが、腕は確かだ。……冬が来る前に、会っておくといい」
鉄を打つ、か。鍛冶屋さんだろうか。火や鉄の相談ができる人がいるなら、この山暮らしには、これ以上ないくらい心強い。冬が来る前に、というのも気になる。薪ストーブでも据えるなら、たしかに秋のうちに手を打っておきたいところだ。
「ぜひ、お願いします。楽しみにしてますよ」
軽トラが土埃を上げて、山道を下っていく。テールランプが木立の向こうに消えるまで、俺はなんとなく見送っていた。
都会にいたころは、隣に誰が住んでいるのかも知らなかった。それがこの山じゃ、少し変わった人にばかり縁がある。木を知り尽くした森野さんに、今度は鉄を打つ頑固者、か。妙に濃い顔ぶれだが、どの人も、会えばきっと悪くない。
田舎ってのは、案外、あったかいもんだな。
肩のコロを起こさないよう、そっと家へ引き返す。さて、夕餉の支度だ。かまどの前じゃ、エンが待ちくたびれているころだろう。




