第58話
増設に足りなかった追加の杉板を、森野さんが軽トラで届けに来てくれた。
注文したのは端材で間に合う程度の量だったのに、わざわざ谷を越えて運んでくれたらしい。ついでに山の様子を見たくなったのだと、森野さんは事もなげに言った。
盛夏の日差しの下、木の匂いをまとった荷台から、俺は一緒に板を下ろしていく。俺が二人がかりで運ぶような一枚を、森野さんは危なげなく抱えていく。板のどこに手を掛ければ素直に動くか、指の先がはじめから心得ているような、そんな手つきだった。
礼を言おうと振り返って、俺はふと気づいた。森野さんが、俺の肩のあたりを見て、微笑んでいる。
その肩の上では、コロがまんまるの目でお客さんを見上げていた。
「あるじ、このひと、いいにおいなの」
のんびりした声で、コロが言う。土と木の匂いがするのだそうだ。少し前の俺なら、この声も、この重みも、まったく気づかないままだっただろう。
それが今は、はっきりと見える。聞こえる。森野さんに教わったあの「ピント」を覚えてから、俺の世界は、賑やかになった。
森野さんは、しばらく黙って俺と肩の苔玉を眺めていた。それから、ふっと目もとをゆるめる。
「見えましたか」
静かな声だった。問いというより、確かめるような響きだ。俺がうなずくと、森野さんは深く息をついた。
「……よかった。あなたは、この山に好かれてるんですよ。それも、とびきり」
我がことのように、嬉しそうに笑う。まるで、自分の子が一等賞でも取ってきたみたいな顔だった。
俺はなんだか照れくさくなって、首の後ろをかいた。
「好かれてるって言われても、実感ないですけどね。手伝ってもらってばかりで」
火加減も、湯加減も、材の調達も、この子らに任せっぱなしだ。好かれているというより、俺のほうが世話になっている。むしろ、居候の家主が、四人がかりで甘やかされているような具合である。
◇◇◇
板を積み上げるあいだ、精霊たちは思い思いにくつろいでいた。
スイは軒下の手水鉢でぷかぷか浮かび、エンは日陰の縁石で腹を見せて伸びている。モクは作業台の上で腕を組み、届いた杉板を値踏みするように眺めていた。
森野さんは、その一匹一匹に、ゆっくりと目を細めていく。犬か猫を撫でるみたいな、やわらかいまなざしだ。追い払うでも、驚くでもない。ずっと昔からの顔なじみに会ったような、そんな目だった。
届いた杉板に手のひらを当てて、森野さんは軽く木肌をなでた。この子は水はけのいい斜面で育ったから、雨に強い——製材所で聞いたとおりの説明を、俺は思い出す。木の一本ずつの育ちを覚えているこの人にとって、精霊が見えるのは、きっとそう特別なことでもないのだろう。
モクが、ふん、と鼻を鳴らして、めずらしく羽をぴんと立てた。悪い気はしていないらしい。
「不思議な人だなあ、森野さんは」
思わず、そう口に出していた。この人には、うちの子らが、俺と同じように見えているのだ。
それも、ずいぶん前から。初めて製材所を訪ねた日、俺の肩を見て微笑んだのを思い出す。あのときは虫でもついているのかと、間抜けにも肩を払ったものだった。
◇◇◇
積み込みを終えて礼を言うと、森野さんは軒先で足を止めた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。畑を、家を、そのむこうの杉木立を——山のぜんぶを、ひとつずつ確かめるように見渡していった。
その横顔が、妙に真剣で、俺はつい口をつぐんだ。
「大事にしてやってください」
やがて、森野さんは静かにそう言った。
「こういう山は……本当に、めったにない」
その声には、頼み込むような、祈るような響きがあった。ただの世間話とは、どうしても思えなかった。
俺は返事に詰まって、あらためて自分の山を見回してみる。草をむしって、水をやって、好きに畑をいじっているだけの、なんてことのない山だ。
けれど、その隅々に、名もない小さな光がいくつも瞬いている。今の俺には、それが見える。
「まあ、大事にはしますよ。住み心地がいいんで、俺も」
軽く答えると、森野さんは、それでいい、というように微笑んだ。
軽トラが土埃を上げて去っていく。肩の上でコロが手をふり、俺もつられて手をふった。めったにない山、か。褒められたのは山なのに、なぜか自分が照れている。
まあ、悪い気はしない。俺は木の匂いの残る庭で、大きく伸びをした。




