第57話
夜明けの光がまだ薄いうちから、俺の枕元は騒がしい。
「あるじ、朝だぜ! 起きろって!」
尻尾の先を火の粉みたいに揺らしたエンが、俺の頬をぺしぺし叩いてくる。ほんの少し前まで、ここには鳥の声しかなかったはずなのに。
寝ぼけ眼をこすって身を起こすと、火のかけらが得意げに宙を跳ねた。目覚まし時計より正確で、しかも遠慮がない。
「わかった、起きる。起きるから、髪を焦がすなよ」
台所へ下りると、かまどの火はもう気持ちよく育っていた。エンが夜のうちに種火を守っておいてくれたのだろう。湯気の立った鍋の前で、俺はしばし手を止める。
昔は、朝の一杯の白湯を沸かすだけでも億劫だった。目覚まし三つを止め、満員電車に詰め込まれ、席に着く頃には一日分の元気が切れていた。
それが今は、火が俺を待っている。ただそれだけのことが、妙にありがたい。
「エン、味噌汁だけ火を強めてくれ。飯は弱火でいい」
「まかせろって! オレの火加減は日本一だぜ」
自称日本一の火は、たしかに文句のつけようがない。鍋のふちがくつくつと踊り、味噌の匂いが土間いっぱいに広がっていく。
◇◇◇
顔を洗いに水場へ回ると、桶のふちで半透明のスイがぷかりと浮いていた。
「あるじ、今朝のお水は、とびきり澄んでますわよ」
小さな胸を張るスイの下で、水面が鏡みたいに空を映している。掬って顔にあてると、驚くほど角が取れて柔らかい。ついでに風呂の湯も、夕方まで冷めないよう見ておいてくれるらしい。
「そのかわり、あの青いつぶつぶを、また入れてくださいましね」
湯に落とすとしゅわしゅわ泡立つ入浴剤のことだ。宝石みたいだと真顔で崇めるので、この間まとめ買いしてきた。相棒の機嫌の取り方を、俺もだいぶ覚えてきたものだ。
畑へ出れば、畝の上でモフモフの苔玉が待っている。
「あるじ、おはようなの。きゅうり、また大きくなったよぉ」
コロの機嫌がいい朝は、決まって野菜の育ちもいい。土に指を入れると、ふかふかと温かくて、掌に吸いつくようだ。二人で草をむしり、水をやる。相棒がいると、単純な作業がなぜか捗る。
工房をのぞくと、作業台の隅でモクが腕を鳴らしていた。
「フン、遅いぞ。今日は棚の続きだったな」
渋い顔で言うわりに、木取りの筋はもう見立ててある。俺が墨をつければ、風がすっと通って、丸ノコの線がぶれない。相変わらず口は悪いが、腕はいい。
◇◇◇
こうして一日が回っていく。
火を見るエン、水を澄ますスイ、土を励ますコロ、木を読むモク。それぞれが持ち場で腕を振るうから、俺の暮らしは日ごとに手際よく、そしてやかましくなっていった。
飯はうまく、湯は澄み、畑は実る。仕事の精度も、正直、楽しさも、一段上がった気がする。
元SEの頃は、段取りと効率がすべてだった。無駄な工程は削り、並列で回せるものは回す。そういう頭で暮らしを組み立ててきたつもりだった。
だが、こいつらと過ごす一日は、効率という物差しからは少しはみ出している。掛け合いに手が止まり、寄り道が増え、それでもなぜか、前より暮らしが整っていく。理屈に合わない話だ。
昼飯の残り汁を巡ってエンとひと悶着あり、堆肥の匂いにコロがうっとりし、棚が水平に収まったところでモクが「フン、まあ合格だ」と偉そうにうなずく。
賑やかな一日の終わりに、俺はふと縁側で笑ってしまった。
考えてみれば、おかしな話だ。
「都会が嫌で、独りになりたくて逃げてきたはずなんだよなあ」
人混みも、着信も、飲み会も、全部が煩わしかった。誰にも構われず、静かに暮らしたい。ただそれだけで、俺は貯金をはたいてこの山を買ったのだ。
なのに、気づけばこの有様である。朝は叩き起こされ、昼は残り汁を取り合い、夜はこうして膝の上を占領される。静けさを求めた男の家が、今や一日じゅう誰かの声で満ちている。
「それが今や、いつのまにか大家族の家長だ。人生、わからないもんだな」
膝に乗ったコロを撫でながら、俺は空を見上げた。独りになるつもりが、こんなに賑やかになるとは。
まあ、悪くない。悪くないどころか、この山、来た頃よりずっと居心地がよくなった気さえする。家が明るくなって、庭が呼吸をして、隅々まで誰かの手が回っている。
もっとも、俺がそう仕込んだ覚えは、別にないんだけどな。相棒たちが勝手に居ついて、勝手に賑やかにしてくれただけだ。
それでも、悪くない。今夜の飯も、きっとうまいだろう。




