第53話
朝の水やりを終えて、俺は台所のかまどに火を入れた。薪を組んで、火口に丸めた新聞紙を差し込む。マッチをすると、炎がいつものようにすっと素直に育っていった。
かまどの縁では、手のひらほどの赤いサラマンダーが、得意げに尻尾の火を揺らしている。火と熱の精霊、エンだ。
「どうだ、あるじ! 今日も完璧な火加減だぜ!」
「ありがとうな」と返しながら、味噌汁の鍋をかける。こいつらが見えるようになってから、暮らしのいちいちが妙になめらかに回るようになった。飯は炊ける、湯は冷めない、畑はよく育つ。
……正直、少し出来すぎている気もするんだよな。
飯を食い終えて、俺は買い出しに出ることにした。切らした醤油と、電動工具の替え刃。麓のスーパーとホームセンターまで、軽トラで山道を下る。
助手席に、エンがひょいと飛び乗ってきた。鼻息も荒く「オレも行くぜ!」と胸を張っている。まあ、留守番よりは賑やかでいいか。
◇◇◇
ところが、だ。曲がりくねった坂を下って、集落の手前の小さな橋を渡ったあたりで、様子がおかしくなった。
助手席のエンが、みるみる薄くなっていく。さっきまで真っ赤に燃えていた体が、朝もやみたいに透けて、輪郭がぼやけていくのだ。
「あ、あれ……オレ、なんか、力……入んねえ……」
声まで遠い。俺は慌てて路肩に軽トラを停めた。手を伸ばすと、エンはへにゃりと座り込んで、蝋燭の消えかけみたいに心細く揺れている。
どうやら、この境目から先へは、ついてこられないらしい。結局エンは、名残惜しそうに山のほうへ引き返していった。
一人でスーパーに入って、俺は改めて思い知ることになった。カゴを提げる手つきも、値札を見比べる目も、ただの三十路手前の男のそれだ。特売の卵は目の前で最後のひとパックをさらわれ、目当ての醤油は棚から品切れ。レジでは小銭が足りず、もたついた。
山にいるときの、あの妙になめらかな手応えが、きれいさっぱり消えている。
なるほどな、と思う。
山を下りれば、俺はただの俺だ。奇跡もご利益も、何ひとつ付いてはこない。
◇◇◇
山道を登って敷地に戻ると、庭先でエンがけろりと燃え盛っていた。境内に帰った狛犬みたいに、すっかり元気だ。
肩にはモフモフの苔玉のコロが乗り、水がめの縁では半透明のスイがぷかぷか浮き、作業台の上ではムササビのモクが腕を組んでいる。四匹そろって、心配そうに俺を見上げていた。
「あるじ、下のほうは……こわいところだったの?」
コロが、まんまるの目でおずおずと尋ねてくる。俺はしゃがんで、順番に聞いてみた。お前たちの力は、この山を出ると使えないのか、と。
モクが渋い顔で、フンと鼻を鳴らした。
「当たり前だろう。おれたちが根を張ってるのは、この山とこの家だ。土地を離れりゃ、ただの気配に戻るだけだがな」
スイが、水面をきらめかせて続ける。
「それに、わたくしたちにできるのは、あくまで暮らしのお手伝いだけですわ。火を熾したり、水を澄ませたり、土を肥やしたり……。喧嘩も、宝の山も、無理な相談ですのよ」
なるほど。俺は膝を打った。要するに、力の及ぶのはこの敷地の内側だけ。しかも、日々の暮らしまわりのことに限る、というわけだ。
「なるほど、この山の中だけ、なんだな。しかも、暮らしのことだけ。万能じゃないのか」
俺は苦笑して、頭をかいた。
「まあ、そりゃそうだよな。都合よすぎるもんな、なんでもかんでも叶うってのは」
考えてみれば、そのほうがよほどしっくりくる。畑の水やりを手伝ってくれる相手に、いきなり魔物退治だの一攫千金だのを望むほうが、どうかしている。
それに、と俺は四匹を見回した。境目を越えたとたん、消え入りそうになっていたエンの顔が頭をよぎる。あれは、知らずに無理をさせていたんじゃないか。
「無理はさせられないな。できる範囲で、一緒に楽しくやろう」
その一言に、四匹がぽっと明るくなった。コロは苔玉の体をふるふる震わせ、スイは水面を宝石みたいに輝かせ、モクはフンとそっぽを向きながらも、羽の葉っぱが嬉しそうに色づいている。エンにいたっては、感激のあまり尻尾の火を勢いよく噴き上げて、危うく軒を焦がしかけた。
「こら、家の中で燃えるな」
まったく、賑やかな連中だ。世話焼きで、働き者で、ちょっとだけ暮らしに手を貸してくれる、気のいい居候。たぶん、どこの山にでもいる、ありふれた精霊なんだろう。俺みたいな無精者のところにまで、よくもまあ律儀に付き合ってくれるものだ。
できることと、できないこと。その線がはっきりしたら、かえって気が楽になった。無理な奇跡を期待しないぶん、こいつらのくれる小さな親切の、ひとつひとつがありがたく思える。
さて、と俺は立ち上がった。買ってきた替え刃で、午後は直売所の増設のつづきだ。
「モク、手伝ってくれるか」
「フン、仕方ないな。おれがいなきゃ、どうせ寸法を間違えるんだろう」
憎まれ口を叩きながら、モクはもう作業台の上で、木材の木目をじっと見定めている。
山の中だけ、暮らしのことだけ。それでも俺には、じゅうぶんすぎるくらいだった。




