第52話
朝いちばんの工房は、木の匂いがいちばん濃い。
夜のあいだに冷えた鉋屑と、切りたての杉の香りが混じって、鼻の奥がすっと通る。盛夏の日差しはもう外で照りつけているのに、板壁に囲まれたこの一角だけは、ひんやりと涼しかった。
俺は作業台に材を並べ、今日の段取りを頭の中で組み立てる。直売所の増設で、あと数枚、棚板を切り出さなきゃならない。
その作業台の隅で、葉っぱの羽をたたんだムササビが、腕を組んでこっちを見ていた。木と風の精霊、モクだ。
「フン。今日はどれを切る」
渋い顔のわりに、声には妙な張りがある。仕事の話になると急に前のめりになるあたり、根っこがどうしようもなく職人なんだろう。
こいつは、木のことにかけては誰にも譲らない。材の目を読み、乾き具合を言い当て、俺が節を避けそこねると容赦なく鼻を鳴らす。プライドは高いが、その分だけ腕は確かだ。厄介で、頼もしい相棒である。
まずは寸法だ。差し金を当て、鉛筆で当たりをつけて、墨線を一本、すっと引く。ここがずれると全部がずれる。指先に神経を集めて、線と定規の隙間をゼロに詰める。
線が引けたら、丸ノコの出番だ。刃の出しろを材の厚みプラス数ミリに合わせ、ガイドを墨線に寄せる。安全カバーの動きを指で確かめ、集塵の口もふさがっていない。段取り八分、と昔から言うやつだ。
トリガーを引くと、モーターがぐわんと低く唸りを上げた。刃が材に触れた瞬間、音は甲高い切削音に変わり、細かい木屑が扇形に散って、あの香ばしい杉の匂いがふわりと立ちのぼる。
俺はガイドから目を離さず、一定の速さで押していく。焦って速めれば刃が暴れ、遅すぎれば焦げる。この「ちょうどいい」を手が覚えるまでが、けっこう長かった。
すとん、と最後まで刃が抜けて、切り落とした端材が台の上に転がった。断面を指でなぞると、ささくれひとつない、まっすぐな面。
その断面を、モクがじっと覗き込んでいた。
羽の先がぴくりと震え、きつく組んでいた腕がほどける。いつもの渋い顔が、めずらしく、ゆるんでいた。
「……文明の利器。悪くない」
ぽつりと言って、モクは切り口をもう一度なでる。
「いや。正直、脱帽だ。この直線、俺の風でも、こうはいかんぞ」
静かに感服している精霊、というのは、なかなか見ものだった。というか、これはあれだ。工具の馬鹿正直なパワーとまっすぐさに素直に痺れる感覚、俺にはよくわかる。
「モク、お前、丸ノコが好きなのか」
「フン。好きとは言っとらん。……悪くない、と言っただけだがな」
そっぽを向く羽の先が、まだそわそわしている。工具オタクの精霊とか、俺と気が合いすぎるだろ。思わず頬がゆるんだ。
◇◇◇
そこからの作業は、妙に息が合った。
俺が材を押さえると、モクが風をひとすじ通して木屑を払い、切り口の粉が視界を邪魔しない。墨をつけるときには、材のわずかな反りを羽の先で示してくれるから、狂いが出ない。
組み立てに移ると、その効果はもっとはっきりした。継ぎ手をはめ込むとき、いつもなら数ミリ渋るところが、すうっと吸い込まれるように収まる。棚板の水平を見れば、端から端まで、気持ちいいくらいまっすぐだ。
途中でモクが、俺の切り出した板の一枚を、これはこっちに使え、と羽で指した。木目の流れを見て、いちばん力のかかる場所へ強い面を回すつもりらしい。言われたとおりに組み替えると、なるほど、たわみ方がまるで違う。この目利きばかりは、丸ノコにも真似できない。
今日はやけに、手が冴えている。丸ノコの調子がいいのか、俺の腕が上がったのか。まあ、たぶん道具のおかげだな。
道具がいいと仕事が早い。相棒がいると、もっと早い。
◇◇◇
最後の一枚を留め終えて、俺は腰を伸ばした。増設した棚は、我ながら上出来だ。
モクが台の上をとことこ歩いて、継ぎ目を一つずつ検分していく。うんうん、と唸るような、値踏みするような間があって、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「あるじの段取りは、悪くない」
褒められた、と思った次の瞬間だった。
「……もっと良くできるがな」
言うだけ言って、モクはさっさと作業台のいつもの定位置に戻り、また腕を組む。
その口ぶりがあんまり職人臭くて、俺は声を出して笑ってしまった。憎まれ口の裏で、葉っぱの羽の先だけが、ちょっと得意げに揺れていた。




