第50話
盛夏の朝は、水の音で始まる。井戸のポンプを押すと、冷たい水が桶にほとばしって、その水面が、ひとりでに、ぷるん、と丸く盛り上がった。
半透明のスライムが、水のなかからにゅうと顔を出す。水と浄化の精霊、スイだ。姿が見えるようになってまだ数日、俺はいまだにこの瞬間に少し慌てる。
「あるじ、おはようございますわ。今日はわたくし、水場をぴかぴかにいたしますの」
得意げに胸を張る仕草が、妙にませていて可愛らしい。手のひらに乗るくらいの体で、口調だけはやたら丁寧なお嬢様なのだ。
スイが桶のふちをくるりと一周すると、もともと澄んでいた水が、さらに透きとおる。底に沈んだ小さな砂粒まで、くっきり数えられそうだった。
「相変わらず、いい仕事するなあ」
水道のない山暮らしで、飲み水も洗い物も、この井戸が頼りだ。それをスイが澄ませてくれるものだから、うちの水はどこの名水よりうまい……気がする。まあ、気のせいということにしておこう。
スイは桶の水を台所へ運ぶと、次は流しのぬめりに取りかかった。ぷるんと体を広げ、木の桶や柄杓をなぞるように滑っていく。通ったあとは、水垢もぬめりもきれいに消えて、木肌が白く生き返った。
「水場は、澄んでいてこそですわ。よどみは、いちばんいけませんの」
なるほど、水の精霊にも職人のこだわりがあるらしい。俺は雑巾を置いて、その仕事ぶりに素直に感心した。
試しに、その澄んだ水で麦茶を淹れてみた。やかんで煮出して氷で冷やし、欠けたコップに注ぐ。
琥珀色の液体が、驚くほど澄んでいた。濁りひとつなく、光にかざすと底まで透ける。ひと口飲んで、俺は思わず動きを止めた。香ばしいのに、後味がふしぎと甘い。
「……なんだこれ、うますぎるだろ」
ただの麦茶パックだ。スーパーで安売りしていたやつ。それが、水を変えただけでこの仕上がりとは、恐れ入る。
「わたくしのお水ですもの。当然ですわ」
◇◇◇
昼を過ぎて、俺は風呂の支度にかかった。この家の風呂は、直したばかりの五右衛門風呂だ。
鉄の釜を据え、下から薪で焚く昔ながらのやつ。買ったときは底が抜けかけていたのを、部品を取り寄せて自分で組み直した。六十点の出来だが、湯はちゃんと沸く。
その釜のふちに、スイがそわそわとよじ登ってきた。そして、真顔で言い放つ。
「あるじのお風呂は、神の泉ですわ」
「いや、ただの五右衛門風呂だよ」
中古で買い叩いて、素人が直した鉄の釜が神の泉なわけがない。スイはうちの水場を、なにかと大げさに崇めたがるのだ。
湯が沸いたところで、俺はポケットから取り出したものを、ぽちゃんと湯に落とした。青い錠剤の入浴剤だ。
しゅわしゅわ、と細かい泡が立ちのぼる。とたんに、スイの目の色が変わった。
「あのシュワシュワ、最高ですわ……! 泡のひとつひとつが、宝石みたいですの!」
湯面を泡が覆っていくのを、スイは全身を震わせて見入っている。ぷるぷるの体が、興奮でいつもより激しく波打っていた。
水の精霊が、まさかの入浴剤マニアである。
「そんなに好きか、それ」
「好きなんてものじゃありませんわ! この、弾ける粒の煌めき、一日じゅう眺めていたいくらいですの」
うっとりと湯に見入るスイを見ていたら、なんだかこっちまで嬉しくなってきた。ひと箱いくらでもない安物だ。そんなに喜ぶなら、いくらでも入れてやりたい。
「入浴剤マニアの精霊か……。よし、今度まとめ買いしてくるわ」
「まとめ買い……!」
スイが、きらきらした目でこちらを見上げてきた。
「あるじ、あなたって方は、なんてお心が広いんですの……!」
たかが入浴剤で大げさな。とはいえ、精霊にここまで拝まれると、悪い気はしない。買い出しメモの隅に、青い錠剤をひとつ書き足しておく。
◇◇◇
日が傾いて、俺はようやく湯に浸かった。
スイが澄ませた湯は、いつまでも冷めない。肩まで沈むと、一日ぶんの汗と疲れが、じんわりほどけていく。窓の外では、ひぐらしが鳴き始めていた。
湯のなかで、青い泡がまだかすかに弾けている。ふちではスイが、その泡を宝物みたいに見つめていた。
「いい湯だな」
思わずこぼすと、スイが得意げに胸を張った。
「でしょう? あるじのお風呂は、山いちばんですわ」
山にひとつきりの風呂を、山いちばんと言われてもなあ。そう思って、俺はひとり笑った。まあ、この澄んだ湯と、隣で喜んでくれる相棒がいるなら、たしかに悪くない。むしろ、上等な部類かもしれない。




