第49話
朝の畑は、まだ露を含んでひんやりしている。鍬を担いで畝の前に立つと、肩の上でころんと重心の動く感触があった。
苔玉みたいなモフモフが、俺の肩から頭のてっぺんへ、よじよじと登っていく。土と植物の精霊、コロだ。
「あるじ、きょうは、はたけのおしごとなの?」
つぶらな目が、額の上からこちらを覗き込んでくる。姿が見えるようになってまだ数日。それなのに、この妙な距離感には、もうすっかり慣れてしまった。
「ああ。夏野菜の株元に追肥して、ついでに畝をもう一本立てたい。手伝ってくれるか」
「まかせるといいよぉ」
コロがぽすんと畝に降り立つと、足元の土がふわりと色を変えた。乾いて白っぽかった表面が、しっとりと黒く、息を吹き返したように盛り上がる。
俺は思わず膝をついて土をすくった。指の間からこぼれる感触が、まるで別物だ。団粒がほろほろとほぐれて、空気を含んでいる。
「……これ、お前がやったのか」
「ねっこが、いきしやすいように、してあげたの。よろこんでるよぉ、このこたち」
なるほど、根が息をしやすいように、か。土壌の団粒構造がどうの、という理屈で覚えたことを、こいつはもっと素朴で、もっと的を射た言い方で口にする。
鍬を入れてみると、その差は歴然だった。いつもなら硬い粘土質に何度も刃を弾かれるのに、今日は豆腐に箸を通すみたいに、すうっと土が割れていく。
「これは楽だ。……お前がいると、畝立ての段取りが半分で済むな」
「だんどり?」
「工程のことだよ。まあ、こっちの話だ」
元SEの癖で、つい作業を工程に分解して考えてしまう。もっとも、その工程を片っ端から短縮してくるのが、この相棒である。
◇◇◇
追肥をしようと、俺は物置から袋を提げてきた。麓のホームセンターで買ってきた、ごく普通の化成肥料だ。
封を切った、その瞬間だった。頭の上のコロが、びくりと固まった。
「……あるじ。いま、あけたの、なぁに」
「ん? ただの化成肥料だけど」
答えるより早く、コロは俺の腕を伝って肥料袋の縁まで滑り降りていた。そして、粒の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、全身のモフモフをぷるぷると震わせる。
「このにおい……たまらないの……」
うっとりと目を細め、幸せそうに袋のふちへ頬ずりまでしている。俺はしばし、その光景を無言で眺めた。
「肥料に恍惚とする精霊とか、渋すぎるだろ」
思わず笑ってしまう。花の蜜とか朝露とか、そういう可憐なものを好みそうな見た目をしておいて、こいつのツボは化成肥料か。
もっとも、わからなくもない。あの、土に混ぜたときに立ちのぼる独特の匂い。俺も嫌いじゃない。
「気に入ったなら、こっちもあるぞ」
俺は畑の隅の木箱を指した。野菜のヘタや皮を積んで寝かせている、自家製の堆肥だ。半分ほど土に還りかけた、黒くて甘い匂いのするやつ。
コロはそちらへ転がっていくと、箱に頭から突っ込む勢いでめり込んだ。
「こっちも、すごいのぉ……。あるじ、これ、まほうのこやしより、ずうっといいにおいなの」
魔法の肥料、という単語がさらっと出てきた気がするが、まあ、精霊の世界にはそういうものもあるんだろう。既製品より手製の残飯堆肥のほうが上、と言い切るあたり、こいつはかなりの通らしい。
◇◇◇
追肥を終えるころには、日がだいぶ高くなっていた。株元にコロが触れていくたび、しなびかけていた茄子の葉が、目に見えて張りを取り戻していく。
この畑、そりゃあよく育つわけだ。俺は麦茶を一口含んで、額の汗をぬぐった。
「なあコロ。お前ら、いつもこんなに働いて、疲れないのか」
悪いな、と半分本気で思っていた。住まわせてもらっている礼のつもりだろうが、こう毎日かいがいしくやられると、こっちが恐縮する。
コロは堆肥の匂いに満たされた顔のまま、のんびりと首をかしげた。
「つかれないよぉ。だってね」
まんまるの目が、まっすぐ俺を見上げる。
「あるじがいっぱい、たのしくくらすと、ぼくたちも元気になるんだよぉ」
俺は麦茶のコップを持ったまま、少しだけ動きを止めた。
暮らせば暮らすほど、こいつらが元気になる。理屈はよくわからないが、なんだかずいぶんと、割のいい話に聞こえる。
「そりゃ、ありがたい仕組みだな」
だったら、せいぜい楽しく暮らすとしよう。それがこいつらのためにもなるなら、こんなに気楽な恩返しもない。
俺は残った麦茶を飲み干して、また鍬を握り直した。頭の上で、コロが満足げに、ふにゃりと笑った気配がした。




