第5話
暮らしが少しずつ形になってくると、そろそろ本格的な買い出しが必要になった。米も調味料も心もとないし、修繕の資材も追加でいる。俺は軽トラを駆って、片道四十分の麓の町へ下りた。
スーパーで日持ちする食料をまとめ買いし、足りない分は通販で頼む。この「まとめ買いと通販の併用」が、山暮らしの生命線になりつつあった。
ありがたいことに、電気とネットだけはちゃんと通じている。文明の恩恵は最低限受けつつ、あとは自分の手でやる。俺にとっては、これくらいの塩梅がちょうどいい。
レジで、店員のおばちゃんに「あんた、上の山に越してきた人かい」と声をかけられた。こんな田舎では、よそ者の噂などあっという間に伝わるらしい。
「はい、先日から」と頭を下げると、「あんな不便なとこによう住むわ」と豪快に笑われた。悪意のない、からりとした物言いだった。俺も釣られて笑う。
田舎の人付き合いは、こういう適度な距離感が心地いい。都会のマンションみたいに隣に誰が住んでいるかも知らないのは寂しいが、かといって何もかも詮索されるのも息が詰まる。
ここの人たちは、その中間の、ちょうどいい温度で接してくれる。深く踏み込まれず、かといって邪険にもされず。買い出しのときに二言三言かわす、それくらいの縁。
人間関係にすっかり疲れきっていた今の俺には、その塩梅がありがたかった。ネギの安売りを教わり、この時期は裏山にタラの芽が出るぞと聞かされ、俺は素直に「へえ」と相槌を打った。
生きた土地の知恵は、どんなマニュアルより具体的で面白い。
◇◇◇
同じ頃。誠のあずかり知らぬ、遠い遠い場所で。
痩せた土地と魔獣の脅威に苦しむ、辺境のネル村。その村外れの古い辻に、打ち捨てられた小さな石の祠があった。
行商の若者ガロは、いつものように祈りを捧げようと祠の前にかがみ込み——そこで、息を呑んだ。
祠の供物台に、見たこともない瑞々しい野菜が、山と積まれていたのだ。赤く艶めいた丸い実、みずみずしい緑の葉。
どれも、痩せたネル村の畑では決して育たない、生命力にあふれた恵みだった。ガロは震える手でトマトを一つ手に取り、恐る恐るかじった。あふれ出す果汁の甘さに、涙がにじんだ。
こんなに甘くて力のある食べ物を、彼は生まれて一度も口にしたことがなかった。
「神の恵みだ……! 祠の主さまが、俺たちを見捨てちゃいなかった……!」
ガロは野菜をありったけ抱え、転がるように村へ走った。
「みんな、聞いてくれ! 祠に、また恵みが……! 今度はこんなにたくさんだ!」
その声に、痩せた頬の村人たちが家々から出てきて、彼の腕の中の色鮮やかな野菜を見るなり、わっと沸いた。子どもたちが目を輝かせ、老人が拝むように手を合わせる。
魔獣に怯え、痩せた土地にしがみつくようにして生きてきたこの村にとって、腐らず、瑞々しく、力に満ちたこの恵みは、まさしく天からの授かりものだった。
その夜、ネル村は久しぶりの豊かな食卓に沸いた。誰もが祠の方角へ向かって手を合わせ、まだ見ぬ主さまへ、心からの感謝を捧げる。
「祠の主さま、どうか、この村をお守りください」
ガロの祈りは、切実で、まっすぐだった。——けれど。
その恵みを祠に置いた張本人が、山ひとつ向こうのスーパーで、麦茶を箱買いしながらレジのおばちゃんと世間話をしている、ただの少し疲れた元会社員だとは。
ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。
◇◇◇
山へ帰り着いた俺は、荷物を下ろしながら、いつものように棚を覗いた。留守のあいだに置いていった野菜は、案の定きれいに消えていて、料金箱の対価は、出かける前よりまた少し増えていた。
「常連さんが、できたのかな」
俺は缶の中のコインを指でつまみ、ふうんと眺める。これだけ律儀に、しかも毎回きっちり対価を置いて通ってくるとなると、よほど義理堅い人なのだろう。
よほどの山菜好きの物好きか、それとも近所の誰かが気に入ってくれたのか。
「ありがたいけど、いったい誰なんだろうな」
少しだけ、顔の見えない常連の正体が気になった。
一度くらい、朝早くに張り込んでみれば、姿を拝めるのかもしれない。そう考えかけて、しかし俺は、なぜだかその気になれなかった。
せっかく向こうが顔を見せずにやってきているのに、こちらから正体を暴きにいくのは、なんだか無粋な気がしたのだ。黙って野菜を置き、黙って対価を受け取る。
顔も名前も知らないまま続くこの静かなやりとりが、俺にはむしろ心地よかった。詮索しないのは、田舎の距離感を、いつのまにか俺自身も気に入りはじめていたからかもしれない。
まあ、喜んでくれる人がいるなら、それでいい。自分が食べきれずに持て余していたものが、どこかの誰かの役に立っている。ただそれだけのことが、じんわりと嬉しかった。
会社にいた頃は、あんなに毎日必死で働いていたのに、自分の仕事が誰の役に立っているのか、とうとう最後まで実感できなかった。
それに比べれば、顔も知らない相手が黙って喜んでくれるこのやりとりは、ずっと手触りがある。俺は缶に蓋をして、買ってきた米を担ぎ、家へ向かった。今夜も、うまい飯が炊けそうだ。




