第4話
畑がひと段落すると、次に俺が本気で欲しくなったのは、風呂だった。
ここ数日は濡らした手ぬぐいで体を拭くだけでしのいでいたが、労働のあとにちゃんと湯に浸かりたいという欲求は、日ごとに強くなっていた。
幸い、この古民家の裏手には、昔ながらの五右衛門風呂がある。鋳物の釜を据えた、下から薪で直に焚くやつだ。
まずは掃除から。長年こびりついた釜肌の汚れをたわしで落とし、水を張って水漏れがないか確かめ、煙突に溜まったすすを長い柄のブラシで払う。
地味だが、ここを手抜きすると煙が逆流して家じゅう燻される羽目になる。説明書がわりに、ネットで見つけた古い風呂の手入れ方法を頭に叩き込んでおいたのが役に立った。
ひと通り点検を終え、釜に裏山から引いた湧き水を張り、下の焚き口に薪をくべて火を入れる。
この湧き水がまた、驚くほど澄んでいた。手のひらですくうと、指紋の一本一本まで透けて見えるほどで、ひと口含むと、角のない、甘いとすら感じる柔らかさが舌に広がる。
都会で買っていたペットボトルの水が、急に味気ないものに思えてくるくらいだ。
「なにかの記事で読んだだけだったけど、水がうまい山ってのは本当だったんだな」
汲みながら、俺は独りごちた。飲んでよし、米を炊いてよし、風呂に張ってよし。この水があるだけで、暮らしの土台がまるごと底上げされる気がした。
火を入れてしばらく待つと、釜の湯がゆらゆらと湯気を立てはじめる。板の浮き蓋を踏んで、そろそろと体を沈めた瞬間、思わず声が漏れた。じんわりと、芯の芯まで熱が染み込んでくる。
同じ「風呂」という言葉で呼んでいいものか怪しくなるくらい、何もかもが違った。
湯の中で手足を伸ばし、天井の煤けた梁をぼんやり眺める。窓の外では、風に揺れる木々の影が、湯気ごしにゆらゆらと動いていた。一日の疲れが、湯に溶けて出ていくのが分かる。
腕のマメも、張った腰も、湯の熱に包まれると、不平を言うのをやめていく。
それにしても、と俺はふと思った。ずいぶん長く浸かっているのに、湯がなかなかぬるくならない。
理屈で言えば、薪はもう熾火になっているはずで、湯はとっくにぬるみはじめていておかしくない。
それなのに、まるで誰かがつきっきりで火を足しているみたいに、湯温がいちばん気持ちのいいところで、ぴたりと保たれている。
「この釜、よっぽど保温がいいんだな。鋳物ってのは大したもんだ」
俺は釜の分厚い鉄の壁を思い浮かべて感心し、それ以上は考えなかった。いい道具に恵まれた。そう思えば、たいていのことは説明がついた。
湯から上がり、火照った体に夜風を浴びながら縁側へ出る。山の夜気はひんやりと澄んでいて、湯上がりの肌に気持ちがいい。
冷たい湧き水をコップに一杯、ぐいと飲み干すと、火照った体の内側に、清らかな冷たさがすうっと通り道を作っていく。この一杯のために風呂に入ったと言ってもいいくらいだ。
見上げれば、街ではありえない数の星が、こぼれ落ちそうに空を埋めている。
「……最高だな、これは」
ほかに言葉が見つからず、俺はただそう呟いた。
ずっと欲しかったはずのこの時間を、いつのまにか「贅沢だ」と思うことすら忘れていた。それが今、こうして確かに手のなかにある。
その実感が、湯の温もりと一緒に、胸の底からゆっくり満ちてくる。
寝る前に、いつもの癖で庭の隅の棚を覗きにいった。今日も野菜は消えていて、料金箱には対価が入っている。
今夜のそれは、コインでも毛皮でもなく、握りこぶしほどの、透きとおった青い石だった。手に取ると、ガラスとも鉱石ともつかない、妙にひんやりとした、不思議な質感をしている。
光にかざすと、内側で何かが淡くゆらいでいるようにも見えた。
「石で払われても、使い道に困るんだよな。……まあ、きれいだし、飾りにでもするか」
俺は苦笑して、その石を縁側の隅にちょこんと置いた。子どもの頃、河原できれいな石を拾っては宝物みたいに並べていたのを、ふと思い出す。
鉱物標本のコレクションが増えたと思えば、これはこれで悪くない。
ところが、である。夜半にふと目を覚まして厠に立ったとき、縁側の隅に置いたあの青い石が、ほんのりと淡く光っているように見えた。俺は眠い目をこすって、もう一度見る。光は、もう消えていた。
「……気のせいか。石が光るわけないしな」
寝ぼけていたのだろうと結論づけて、俺は布団に戻り、また眠りに落ちた。その石が、向こうの世界では魔道具を動かす燃料になる代物だなんて、知る由もなく。
◇◇◇
誠が湯を抜き、火照った体で眠りについたあと、風呂の縁で、ぷるん、と半透明のしずくが跳ねた。
水と浄化の精霊、スイである。
「ふふ。今日のお湯も、最高の仕上がりでしたわ」
得意げに身をよじって、スイは五右衛門風呂の釜肌をそっと撫でた。長いあいだ冷えきって、ひび割れかけていたこの釜が、あるじの手で磨かれ、きれいな水を張られて、よみがえったのだ。スイにとっては、山から湧き出る清らかな水と同じくらい大切な、いわば“神の泉”だった。
だから、湯がぬるまぬように、水が濁らぬように、つきっきりで世話を焼いた。あるじが「鋳物は保温がいい」なんて的外れに感心していたのは、ほんの少しだけ、くすぐったかったけれど。
「あるじったら。……あの、しゅわしゅわのつぶつぶ、今度こそ、お湯に入れてくださいましね」
いつか嗅いだ発泡入浴剤の泡を思い出して、スイはうっとりと身を震わせる。
かまどのほうからは、火を絶やすまいと薪を見張っていたエンが、「気が早いんだよ」と笑った気配がした。
あるじには、まだ二匹の姿も声も届かない。それでも澄みきった湯の残り香が、こぷ、とひとつ、あたたかく波打った。




